ところで、今日は2代将軍秀忠の鷹狩りについて書いてみます。
2代将軍秀忠も鷹狩りによく出かけました。
将軍就任前から死去する前年の寛永8年(1631)まで、ほぼ毎年、武蔵国川越、鴻巣、浦和や上総国東金周辺に出かけました。
家康がなくなった後は、武蔵国忍(おし)にも出かけました。忍は家康が好んで出かけた場所であったため、家康が生きている間は遠慮したと言われています。
これらの中で、特に東金周辺には毎年のように出かけていました。
秀忠も数多く鷹狩りに出かけましたが、家康のように1カ月を超える鷹狩りはなく、ほとんど1週間から2週間程度でした。また、回数も家康には及ばなかったようです。
鷹狩りでも、秀忠は、鷹を使った狩猟より鉄砲による狩猟を得意としていました。
秀忠の時代に、鷹狩りに関係して幕閣が失脚する大事件が発生しています。
慶長11年正月、関東総奉行の内藤清成と青山忠成が失脚しました。
内藤清成は、高遠藩内藤家の藩祖で、青山忠成は幕末には丹波笹山藩主であった青山宗家の藩祖です。 二人とも、家康から厚く信頼をされていた重臣でした。
鷹場では鳥の殺生が禁じられていました。
しかし、家康が鷹狩りに出かけたところ、鷹場で鳥をとるため罠を仕掛けている農民たちを見かけました。
そこで、農民たちに聞くと、関東総奉行から許しを得ているとのことでした。
播いた麦を野鳥に喰いあらされていた農民は、総奉行に願い出て、野鳥の捕獲を許されていました。
これを知った家康は激怒し、関東総奉行の処分を求め、秀忠は関東総奉行の内藤清成と青山忠成を解職せざるをえませんでした。
家康は、二人の解職まで考えていなかったが、本多正信の両者へのねたみから解職になってしまったという説もあります。