さて、今日も鷹狩りのお話です。今日は。3代将軍家光と4代将軍の家綱の鷹狩りの様子を書いてみます。
3代将軍家光も鷹狩りが大好きでした。
家光も秀忠と同じように将軍就任以前から鷹狩りに出かけました。
江戸の近辺のほか、川越や鴻巣で鷹狩りをほぼ毎年行っています
そして、鷹狩りだけでなく、寛永2年8月には川越で猪狩りを行い、同じ年の寛永2年11月には武蔵国牟禮(現在の三鷹市牟礼)で鹿狩りを行っています。
秀忠がなくなると、秀忠までの時代と異なり、川越、鴻巣まで出かけて行っていた宿泊して鷹狩りを行うことがなくなり、出かける場所は江戸近辺5里以内の地に限られ、日程も日帰りのものとなりました。
家光の行く鷹狩り先は、品川、葛西、高田、麻布、目黒、千住、隅田川、王子など江戸近辺が中心となっています。
このころになると家康の時代に建てた御殿が老朽化していたため、御殿の修理が行われています。
葛西御殿、府中御殿、船橋御殿、中原御殿、越谷御殿については、寛永16年にそれぞれの修理奉行が任命されています。
家光は、慶安4年4月20日になくなりましたが、同じ年の正月3日は品川、8日に浅草、11日に千住に出かけました。そして、2月7日に浅草、2月13日に隅田川で鷹狩りを行っています。
家光の尊敬する御祖父さん家康と同様に、家光もなくなる直前まで身体がいうことときく間は鷹狩りに興じたようです。
家光がなくなり、家綱が4代将軍になると、幕府は放鷹制度の縮小に取り組んでいます。
家光死去の9日後、幕府は諸大名に鷹の献上の停止を命じ、鷹を求めて各地に派遣されていた鷹匠の一部を江戸に帰るように命じています。
また、5月14日には必要最低限の鷹のみ残して鷹を放すよう鷹匠に命じています。
さらに5月20日には鷹50羽が放されています。
家綱は将軍になった時11歳でした。
そのため、初めて鷹狩りに出たのは、将軍になった後の明暦2年11月6日でした。麹町付近で行われ、11月18日には、2回目の鷹狩りが鎌倉河岸で行われました。
その後、家綱は多い時で年に6回、少ない時には年に2回だけ鷹狩りに出ています。
出かけた先は、隅田川を中心に、麻布、高田、品川、千住などです。
しかし、家光の代より圧倒的に少なく、鷹狩りという年中行事を継続していくだけでした。
家綱の延宝元年以降の鷹狩りは、延宝元年(1673)に3回(いずれも隅田川)、2年から4年に毎年3回(隅田川に2回、麻布に1回)、5年に3回(いずれも隅田川)、6年に2回(隅田川1回、麻布1回)行なわれ、7年2月に麻布で行われたのが最後となりました。
隅田川の堤防いわゆる墨堤の桜並木は、家綱が隅田川御殿に桜を植えさせたのがきっかけとされています。
家綱は毎年隅田川に鷹狩りに出かけていますので、隅田川御殿で桜を眺めることもあったのでしょう。