こうした将軍のもとで、鷹狩りはどうなったでしょうか。今日は綱吉の時代の鷹狩りの話です。
綱吉は将軍になる前には館林藩主でした。
綱吉は舘林藩主時代の前半までは鷹狩りを行っていますが、寛文11年の10月から11月に行われた鷹狩りを最後に、それ以降鷹狩りを行いませんでした。
そして、将軍就任後は、放鷹制度の縮小に取り組み始めました。
まず鷹狩りに関係する役人を削減しました。
そして鷹関連の幕府儀礼である諸鳥下賜儀礼を中止していきました。
家綱の時代まで毎年4月頃に行われていた梅首鶏・鷭の下賜は綱吉の就任当初から停止され、7月頃に行われていた雲雀の下賜は貞享2年からほとんどなくなり、元禄元年から完全に廃止されました。8月から10月に行われていた鶴の下賜は貞享2年からなくなり、鶴は朝廷に献上するだけとなりました。さらに鴈の下賜は天和元年には有力大名や幕府要職者に限られて行われていたが、天和2年から貞享元年までは幕府要職者に限られ、貞享2年以降は、この儀礼自体がなくなっています。
また、就任当初は、綱吉は鷹匠が鷹狩りをするのを認めていましたが、元禄6年9月には、これも全面的に禁止しました。
この結果、9月12日に、鷹部屋に残されていたすべてすべての鷹を伊豆新島に放しました。
そして、鷹関連の儀礼のなかで、唯一継続されていた朝廷への鷹の鶴の進上が宝永3年9月に停止されました。
このように、綱吉は就任当初は継続していた鷹関連の儀礼、組織などを徐々に縮小に、晩年には、ほぼすべてを停止しました。
こういう状況ですので、綱吉自身は鷹狩りに出かけることはなく、ついに将軍就任中には一度も鷹狩りをおこなれませんでした。
しかし、綱吉が死去すると鷹狩りの復活気運が生じてきます。
正徳元年10月、朝鮮通信使が家宣の将軍就任を祝って来日した際、鷹10羽が献上され吹上で飼育されたりしています。
でも、本格的に復活するのは、8代将軍吉宗のなってからです。