鷹狩りを復活させた8代将軍吉宗の時代の鷹狩りについて書いてみます。
今回の鷹狩りを書くにあたって、根崎光男著「将軍の鷹狩り」(同成社)を大いに参考にさせていただきました。
家康から吉宗までの歴代の鷹狩りについては、要約してこのブログに書きましたが、その他「公儀鷹場の編成と支配」などの章もあり、江戸時代の鷹狩りについてよくわかります。
興味・関心がありましたら、一読してみてください。
さて、綱吉により停止されていた鷹狩が本格的に復活するのは8代将軍吉宗の時代になってからです。
享保2年5月11日に、吉宗が将軍になって初の鷹狩りが行われました。
鷹狩りが行われたのは亀戸・隅田川でした。
吉宗は、両国橋から麒麟丸に乗り、隅田川を下り、江戸湾を通り、亀戸の天神橋から上陸し亀戸天神で休息し、その後、また船にのって隅田川に出て、隅田川の堤防で鷹狩をおこなったそうです。
鷹狩りの翌日には、水戸・紀伊の両家には、吉宗が捕まえた梅首鶏(ばん)が下賜され、尾張家にはそれを国元に届けました。
このことは、鷹の鳥の下賜が再開されたことを意味します。
さらに同じ月の18日には小菅で鷹狩りが行われました。
捕獲した獲物のうち梅首鶏が加賀藩前田家に下賜されました。
吉宗は鷹狩りを復活させましたが、鷹狩りに関する諸々の慣習の簡素化も行いました。
享保2年7月の町触では、江戸町内の往来沿道では、将軍の御成りであってもあらためて掃除をする必要はなく、通常通り商売をするように触れています。
同じく12月の町触では、沿道の名主は羽織・袴、家主は羽織・立付、店借等は袴を着用せず、土間に平伏するようしました。そして従来は御成りの沿道の架けられている看板などを外させていましたが、以後は外さなくてよいことにしました。
鷹狩りの際の御成行列の組織化もすすみました。鷹野行列は、先導のはか、一段・ニ段。三段の三段構えで構成されました。
例えば、享保3年正月27日の小松川への鷹野御成では、先導は御徒10人、御徒頭1人、小十人頭1人で構成され、一段は刀持2人、小納戸1人、側衆1人、鷹匠頭1人、二段は若年寄・小姓・小納戸・目付・伊奈半左衛門・鷹匠頭・鷹匠・鷹匠同心、そしてこの時に使われる鷹で構成さら、三段は茶弁当持、水荷物持、丸弁当持、挟箱持、槍持、手筒持、騎馬、小十人、御徒、鷹匠、奥坊主、御部屋坊主、土圭之間坊主などの順番で行列が組まれているそうです。
家康と秀忠の時代の鷹狩りは、宿泊をともなった鷹狩りが数多く行われました。
しかし、家光以降は宿泊を伴う鷹狩りはほとんどなくなりました。
そのため、諸地域に建設された御殿。御茶屋の多くは元禄期までになくなりました。
吉宗以降は、休憩施設が数多く設置されました。
これらの施設は、御腰掛、御膳所、御仲休所、御小休所、御休憩所、御立寄所、御弁当所などと呼ばれたようです。
このうち、御腰掛は、それまで残っていた御殿が改称されたり、新たに設定されたものを云いました。また、御膳所は将軍の鷹狩りの都度設定されました。
主な所は、隅田村の木母寺、小菅村の伊奈半左衛門屋敷、木下川村の浄光寺、千駄木の鷹部屋、駒場の御用屋敷、亀戸村の亀戸天神・普門院、中川番所、音羽町の護持院、雑司ヶ谷の鷹部屋、中目黒の祐天寺、品川の東海寺・鈴ヶ森八幡、上中里村の御用屋敷、深川の永代寺などでした。
御府内88ヶ所めぐりで訪ねた、江古田の東福寺(左上写真)は御膳所となり休息と食事をとった歴史があるため御膳所跡の石柱(右写真)がたっていました。