亀戸については、すでに亀戸七福神と亀戸天神社について、既に書いていますので、それと重複しないように書いていきます。
今日は亀戸天神について書きます。
亀戸天神社は、正保3年(1646)九州太宰府天満宮の神官だった菅原大鳥居信祐((すがわらおおとりいしんゆう 道真の末裔・亀戸天神社初代別当)が、神のお告げにより、道真ゆかりの飛び梅の枝で天神像を刻み、天神信仰を広めるため社殿を建立しようと思って、諸国を巡り歩き 、江戸の本所亀戸村にたどり着き、亀戸に元々あった天神 の小さなほこらに天神像をお祀りしたのが最初です。
最初は、小さな社だった亀戸天神社ですが、幕府からの現在地を寄進されて大きな神社となりました。
幕府は、明暦の大火を受けて、本所の町を明暦大火から復興するために開発しようとしていました。そこで、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱はその本所の鎮守の神様としてお祀りするように現在の土地を寄進したようです。
そして、寛文2年(1662)に太宰府にならい、社殿などが建立されました。
亀戸天神社は、現在地に鎮座して以来今年でちょうど350年になります。
【弁天社】
亀戸天神は、境内の真ん中に心字池があります。その池の中の島には、太鼓橋(男橋)、平橋、太鼓橋(女橋)の三つの橋が架けられています。
その最後の橋である太鼓橋(女橋)の手前東側に弁天社があります。
もともとは、大宰府天満宮にある志賀社という神社を、寛文5年(1665)に勧請したものです。
志賀社は広く水をお守りする神様ですが、心字池のほとりに祀られていることから、上野不忍池の弁天堂をイメージされていつしか弁天堂と呼ばれるようになったそうです。
そこで、亀戸天神では、ここを現在では弁天社と呼んでいます。
弁天社の前にある石灯籠は、文政9年(1826)11月23日に、石見国浜田藩主松平康任より奉納されたものです。
松平康任は文政9年(1826)11月23日に京都所司代から老中となりました。その日付で奉納されていることになります。
松平康任は老中首座まで勤めますが、天保6年(1835)9月29日に辞職しています。これは出石藩仙石家でおきた御家騒動いわゆる仙石騒動の影響です。
さらに天保7年3月には浜田藩が朝鮮と密貿易を行っていたことが発覚し、松平康任は天保7年12月に永蟄居を命じられています。
この密貿易を察知したのが、探検家で有名な間宮林蔵です。間宮林蔵は、探検家の顔と幕府隠密の顔をもっていたといわれています。