亀戸天神のご案内から菅原道真の話になり、長くなりましたが、今日は、天神信仰について書いて、菅原道真の話をおわりにします。
菅原道真を天神として崇める信仰が天神信仰です。
もともと「天神」というのはもともとは、地祇(ちぎ)すなわちクニツカミに対するアマツカミまたは天にいる神様の総称だそうです。また、雷を天の神として敬う信仰も昔からあったそうです。
平安時代前期から、災害や疫病は、怨霊の祟りと考えられ、人々はその怨霊を祀り上げることにより怨霊を鎮め災厄を避けようとしました。
これを「御霊(ごりょう)信仰」といいます。
最初は民間で信じられていたものですが、貞観5年に神泉苑で行われた「御霊会(ごりょうえ)」は朝廷が主催したものでした。
道真が天神として祀られるようになったのには、この御霊信仰に見られるような怨霊を慰撫するためにお祀りするということが影響していると考えられています。
そのうえで、、清涼殿落雷事件以降、火雷天神として恐れらるようになった菅原道真の御霊が昔からあった天神(雷)対する信仰と結びつき、天神とし祀られるようになりました。
天暦元年(947)に、京都に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ)や近江国比良宮の神主神(みか)良種、北野朝日寺の僧最珍らが、北野に社殿を建て、道真をお祀りしたのが北野天満宮の始まりとされます。
北野に祀られるようになったのは、北野がもともと天神地祇や雷を祭祀する場所であったからと考えられています。
天徳3年(959)には、藤原師輔により大規模な社殿が造営されました。 道真の御霊(ごりょう)は、本来は藤原氏にとって畏怖の対象でしかないように思いますが、この道真の御霊を藤原氏が守護神として祀り、壮大な社殿も造営しています。
左遷の張本人と言われている時平の一族は、時平死後、長男の保忠、三男敦忠が若くしてなくなりました。
一方、藤原師輔の父の忠平は兄時平の策謀に加担せず、道真と親交を保っていました。
その忠平とその一族は怨霊の被害にあっていません。忠平は摂政・関白や太政大臣を歴任しました。
これは道真つまり天神が忠平を守護していたからと考えられたため、藤原氏の守護神として社殿造営したと言われています。
なお、昨日のハカマオーのコメントにあった平将門は藤原忠平の家来であった時期があります。また、将門は「新皇」を名乗りますますが、これは菅原道真の霊に皇位を授けられたという言い伝えがあります。
天神は、当初は、怨霊を鎮めるために祀られたことから、人々が恐れましたが、やがてその威力のため人々を守護する神様として崇められるようになりました。
その中で、天神は昔から様々な御利益のある神様として信仰されてきました。
当初は、王城鎮護の神様とされ、あるいは冤罪を晴らす神と考えられ無実の罪に泣く弱者を救って下さる神との信仰がありました。
道真が詩歌・書道に優れていたことから、天神は、平安時代から和歌の神様として信仰され、室町時代になると連歌の神様として信仰されました。
そして、江戸時代になると、書道の神様から学問の神様と崇めれるようになり、天神信仰が大きくひろがります。
寺子屋では毎月25日には「天神講」が行われ書道の上達と学業成就を祈るようになりました。
現在でも、学問の神様として、多くの受験生およびその家族から信仰されています。