徳川実紀の東照宮実紀の付録第三巻から始めます。 この巻は、武田信玄との三方ヶ原の戦いの後から、長篠の戦い、そして武田家の滅亡、本能寺の変を経て、甲斐国を手に入れるまでまでのことが書かれています。
その中では、注目すべき事項は、長篠の戦いと信康の自害、伊賀越えですが、長篠の戦いは定説どおり、、信康の自害は「信康切腹」で触れました。伊賀越えは別の機会に書こうと思います。
この巻に「井伊の赤備(あかぞなえ)」について書かれていますので、今日は「井伊の赤備」のお話です。(右下写真は彦根城です。)
家康が天下を取る過程で「井伊の赤備」は、徳川軍団の中でも強力な軍団として知られていました。そして井伊直政は「赤鬼」の異名を取っていました。
そうした軍団がなぜできたのか不思議に思っていましたが、その経緯が徳川公伝に書かれていました。
まず、井伊直政の出仕まで略歴をまとめてみます。
井伊家は、遠江国井伊谷を本拠地とする「八介」の一つとされている名門の家柄です。
「八介(はちすけ)」ってご存知ですか?。今回初めて知りましたが「八介」というのは、同じ家が代々その地方の介(すけ)に任官していて介(すけ)の通称を名のることを許された八家のことを言います。
ちなみに八家は、秋田城介(出羽)、三浦介(相模)、千葉介(下総)・上総介(上総)、狩野介(伊豆)、井伊介(遠江)、富樫介(加賀)、大内介(周防)の八家です。
このように井伊家は遠江の名家でした。 しかし、駿河の今川氏が台頭してきたため、その支配下に置かれます。
しかし、今川家のもとで、井伊家は苦難の歴史を歩みます。
直政の祖父直満は謀反を疑われて殺害されていました。
直満の後を継いだ直盛は桶狭間の戦いで討ち死にし、その後を弟の直親が継ぎました。
この直親が直政の父です。井伊直政が生まれたのは永禄4年(1561)でした。
直親も桶狭間の戦いの後徳川家康に接近したことを知った今川氏親の命令を受けた掛川城主朝比奈泰能に殺されてしまいました。父が殺された時直政はたった1歳でした。
井伊家で、直盛の後は直虎という人物が跡を継いでいますが、実はこの直虎は女性でした。
直政は父がなくなった後、新野家や母が再婚した松下家で育てられます。
そして天正3年(1575)に14歳の時に家康につかえます。
徳川公伝には直政の出仕について次のように書かれています。
天正3年2月ごろ鷹狩りの途中で、直政に会い、父の直親が氏真に殺されたため、三河をさすらい松下源太郎の養子になっているという話を聞き。直接呼び手厚く保護することになった。
のちに次第に重用されるようになり、井伊兵部少輔直政として徳川幕府創建時の第一の功臣と呼ばれたのはこの人である。
赤字に注目です。
この後、直政は、天正4年初陣を果たしたあと、高天神城の攻略で功績をあげ、頭角を表しました。
そして武田氏滅亡の後には、武田の遺臣を召抱えて赤備を引き継ぎました。
なぜ、井伊直政が赤備を引き継いだのか、その経緯が徳川公伝に詳しく書かれていますので抜書きしようと思いましたが、長くなりましたので、この続きは明日にします。

