榊原氏は、足利氏の一族で伊勢守護を務めた仁木氏の子孫が伊勢国榊原郷に居住し、榊原氏を名のるようになったと言われています。
康政の祖父清長が三河に移り住み 松平家4代の親忠に仕えました。
【「康」は「家康」の名から】
榊原康政は、天文17年(1548)、三河国上野郷(現在の愛知県豊田市)に生まれました。
本多忠勝と同い年になります。康政は幼い時、松平家の菩提寺大樹寺で家康に見出された言われています。
康政の初陣は三河一向一揆の平定でした。この時、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられ小平太から康政と名のるようになりました。
以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍し、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど数々の戦いで戦功を立てました。
特に姉川では朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てています。
【小牧・長久手の戦い】
榊原康政が、その強さを全国に轟かせたのが小牧長久手の戦いです。
天正12年(1584)、家康が秀吉と戦った小牧・長久手の戦いで持久戦になった時に康政は秀吉の織田家の乗っ取りを激しく非難する檄文を書き、怒った秀吉は康政の首に恩賞をかけたと言います。
また、家康の本拠地三河を攻撃しようとした秀吉の甥・秀次の軍勢を長久手で急襲し壊滅させました。
徳川側は、この長久手の戦いで秀吉側の森長可、池田恒興なども討ち死させています。
これによって康政は秀吉の注目を引き、家康と朝日姫の婚礼の際には京都への使者を命じられています。
【館林に入封】
天正18年(1590)、小田原の役では小田原城攻めの徳川軍の先手7人組の筆頭として北条側を攻めました。
そして、家康が関東に移封されると、知行割の総奉行を康政が命じられ、康政自身は上野国館林城(右上の写真は館林城の土橋門)に入り、忠勝と並んで10万石を与えられました。
これは、北条氏滅亡後も常陸に残っていた佐竹氏や下野の宇都宮氏をにらんだ配置でした。
【関ヶ原の戦いに遅参】
関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍しましたが、上田城の真田昌幸攻めに手間取ったこととその後の荒天で、秀忠とともに関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。
家康は秀忠の失態に激怒し対面しませんでしたが、康政のとりなしで、その3日後に伏見城での対面が許されたと言われます。
関ヶ原の合戦の後に、重臣の領地替えを行い、井伊直政は彦根へ、本多忠勝は桑名へ替えました。
康政へは家康から佐竹氏が去った水戸に25万石で転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったとも言われています。
家康は康政の態度に感銘した書状を康政に与えています。
【榊原高尾】
康政は慶長11年(1606)に館林にて死去しました。享年59歳でした。
康政の子孫は、館林藩の後、白河藩、姫路藩、村上藩、再度、姫路藩と転封を何度が繰り返した後、寛保元年(1741)に越後高田藩に入り、その後6代続き、明治維新を迎えています。
姫路藩から高田藩への転封は、時の藩主榊原政岑が、8代将軍吉宗の倹約方針に反して、遊郭で豪遊したり、遊女を落籍したりして派手な生活をしていたため、隠居謹慎を命じられた後、懲罰的に行われたものです。
この榊原政岑が落籍した遊女が有名な三浦屋の高尾太夫です。高尾太夫という源氏名の遊女は何人もいて、それぞれ異称がついています。
榊原政岑が落籍した高尾太夫は「榊原高尾」と呼ばれています。
左上写真は、冬の高田城です。