上杉討伐に出向いた家康に、上方で石田三成が兵を挙げたことが伝わりました。
7月24日には有名な小山評定が行われ、兵を返すことが決まりました。
(右写真は、小山の須賀神社です。須賀神社の境内で小山評定が行われたと言われています。)
家康は、豊臣恩顧の諸大名とともに東海道を西上することになり、秀忠は中山道を西上することになりました。
秀忠軍は榊原忠政、本多正信、大久保忠隣が補佐し、酒井忠世、青山忠成、内藤清成、本多忠政、牧野康成、戸田一西(かずあき)など総勢3万8千の大軍でした。
一方、真田昌幸は、会津討伐軍に従軍していましたが、7月21日に石田三成からの密書を受け取ると、宿営地の犬伏(現在の栃木県佐野市)で、長男信幸、次男幸村と話し合い、昌幸と幸村は石田方につき、信幸は徳川方につくことにしました。これが有名な犬伏の別れです。
秀忠軍は8月24日に宇都宮城を出発し上方に向かいました。
1ヶ月も小山にいたのは、上杉景勝に対する処置をするためだったようです。
小山を出発した秀忠軍は、9月1日に軽井沢に着きました。そこで、中山道から外れて北に向かいました。
上田城に陣取る真田昌幸を降伏させるためです。そして、9月2日に小諸城に入り、秀忠は、まず真田昌幸を降伏させようと、信幸を使者として上田城に送りました。すると、昌幸は開城する旨を申し入れてきました。(左下写真は現在の上田城です。)
しかし、実際には昌幸は降伏する考えはなく、籠城の準備の時間をかせぐため、秀忠を欺いて降伏するかのようにふるまっていただけでした。そして、準備が整った段階で、昌幸は、宣戦布告をしてきました。
これに対して、怒った秀忠は9月5日に上田城への攻撃命令を下し、上田城の北にある戸石城を落としました。
そして、9月6日には、徳川方の刈り田働きに怒って城をでた真田方を追撃した徳川勢が、上田城の大手門へと迫ったとき、、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破りました。
以後、籠城策をとる真田方に対して、徳川方は上田城を攻め落とすことができず、ようやく9月11日になって、上田城攻めを断念して上方に出発しました。
こうした攻撃が失敗した要因は、①として真田昌幸・幸村の知謀が秀忠側を上回っていたこと ②として榊原康政や大久保忠隣が本多正信の入ることを快く思っていないと云う不協和音があったためだろうと静岡大学名誉教授の小和田哲男さんがいっています。
9日間も足止めを食らっていた秀忠軍は9月15日行われた関ヶ原の戦いに間に合わず、9月17日木曽の妻籠で関ヶ原での東軍の勝利を聞きました。
秀忠は合戦4日後の19日に赤坂に到着し、翌20日に草津に至り大津にいる家康に面会を求めましたが、家康は面会を許さず、諸将のとりなしにより23日になって、ようやく家康と面会ができました。
ここについての話は明日書きます。