【秀忠と家康の面会】
関ヶ原の戦いに遅れた秀忠に対して、家康がどのような対応をしたかが、家康公伝に書かれています。
それによると
13日に秀忠が大津に着いたが、家康の体調がすぐれなかったので秀忠とは対面しなかった。しかし、翌14日には体調が快復したので面会した。
秀忠が謝ると家康は「参陣の期限を伝えた使いのものが言い間違いをしたのではないか。秀忠お前が心配する必要はない。」と慰めた後、「大きな戦いは囲碁と同じようなものである。関ヶ原の戦いにさえ勝てば真田のような小者がいくら城を固めていても、結局は城を明け渡して降参するよりほかはない。このような意見をいった者はいないか」と聞いた。秀忠は「戸田一西(かずあき)がそう言いました」と答えると、家康は戸田一西を御前に呼んで褒めた。そして、慶長6年に家康は膳所3万石の城主を決める際に戸田一西(とだかずあき)を封じた。
と書かれています。
戸田一西は膳所藩3万石に封ぜられた後、子の代に大垣藩10万石に転封されたため、大垣藩戸田家藩祖と呼ばれています。
戸田家の寛政重修諸家譜を読むと次のように書かれていました。
台徳院殿は東山道より御馬をすすめらるるのとき、したがひたてまつり、真田昌幸が籠れる信濃国上田に御発向ありて城攻の評議あるのとき、一西が申旨ありしを、のち東照宮の台聴に達し、御旨にかなふのよし仰せを蒙る。
右上写真は、現在の大垣城です。大垣城は、関ヶ原の戦いの際には、石田三成らが入城して西軍の拠点となった城です。 9月14日夜間に、西軍は関ヶ原に移動し、東西の決戦は関ヶ原で行われました。
家康公伝(東照宮実紀)では、家康は怒ってはいないようです。ただ体調が悪いので秀忠との面会が遅れたとされています。
しかし、まで私は読んでいませんが、「台徳院殿御実紀」の方には、家康が秀忠の遅参を怒っていて面会が遅れ、側近のとりなしがあって面会したとも書かれているようです。
そのとりなしをしたのは、本多正純と書いてある部分と榊原康政がとりなししたと書かれている部分と二通りあるそうです。
これは、小和田哲男氏著「徳川秀忠」に書かれています。
【跡継ぎ諮問】
秀忠は、関ヶ原の戦いの前に、跡継ぎとは公表されてはいなかったものの、実質的に跡継ぎでした。
しかし、関ヶ原の遅参があったため、家康に迷いが生じたのかわかりませんが、関ヶ原の戦いの後で、家康は、重臣を集めて、家督を秀康、秀忠、忠吉のうち、どの子に譲ったらよいか諮問しています。
その様子も「家康公伝」に書かれています。集められた重臣は、本多正信、大久保忠隣、本多忠勝、井伊直政、平岩親吉の5人とされています。
本多正信は結城秀康を地略武勇が兼ね備わっていると推薦し、井伊直政は忠吉を推し、大久保忠隣は「争乱の時には武勇が必要だが、天下を平和に治めるには学問で人を教化しなくてはならない。秀忠は孝行の心があり人徳もあり、文武兼ね備えている」と秀忠を推しました。その日は特に沙汰はなく一日~2日たってから忠隣のいうことが私の考えにかなっている」といって秀忠に決まった。
と書かれています。
秀忠の跡継ぎ決定までには紆余曲折があったようです。
この時の跡継ぎ候補の秀康と忠吉については明日書きます。