【次男秀康】
秀康は徳川家康の次男です。
母親はお万の方といい、家康の正室築山殿の侍女だったと言われています。
懐妊したことを知った築山殿が彼女を丸裸にして木に縛り付けておいたのを本多作左重次が助けだして、遠江国宇布見(現在浜松市西区)の中村氏の屋敷で出産させたと言われています。幼名は於義丸(おぎまる)と言いました。
なお、秀康の生まれた中村家住宅は現存していて国の重要文化財に指定されています。
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いの講和の際、豊臣秀吉の養子となり羽柴秀康と名のりました。
養子といっても実際は人質です。家康には秀康のほかに秀忠・忠吉もいて養子候補は3人いました。それではなぜ秀康が養子にだされたかですが、家康が秀康に対して愛情を抱いていなかったからだと言われています。
幼名の於義丸という名前も、もともとは魚の「ギギ」からきているという説もある程です。ただし、これは後世に付加された逸話かもしれません。
天正18年(1590)下総の結城晴朝(はるとも)の養嗣子となりました。結城家は名門ですが晴朝に子供がいなかったため乞われたものです。
関ヶ原の戦いの際には宇都宮に在陣し、上杉景勝、佐竹義宣の進出を防ぎました。
この上杉を抑えた功によって、関ヶ原の戦い後、越前68万石へ加増転封となりました。(左上写真は福井城です。)
宇都宮に残る際に、上方で戦いたいので、西上させて欲しいと家康に頼みましたが、家康は、「上杉家は謙信以来弓矢を取ったら天下に並ぶ者がいないし、景勝の武名も目覚ましく、景勝に向かえる人はいない。だからお前を残すのだ」といったので、秀康は了承したと徳川公伝に書かれています。
越前松平家は「制外の家」と呼ばれますが、そう呼ばれるようになった経緯についても、家康公伝に書かれています。
秀康が参勤で越前から江戸に向かった際に、横川の関所で、役人が秀康の一行だと承知したうえで鉄砲改めをしようとしたため、秀康が怒って鉄砲で撃ち殺せと命令したため、関所を通過させた上で、この事態を江戸に通報しました。
報告を受けた秀忠は役人の職務忠実を褒めるのではなく「秀康卿を関所に抑留しようとしたのは人をしらないことだ。秀康卿にうち殺されず、死を免れたのは番人たちにとって大きな幸いだ」といったそうです。
そして「世に越前の家は制外なりというふはこの時頼の事とす」と書いてあります。
その後、秀康は慶長12年(1607)病のため閏4月になくなりました。34歳の若さでした。死因は梅毒と腎虚という説もあります。
【四男忠吉】
忠吉は、徳川家康の四男です。母は西郷局で、秀忠の同母弟となります。
天正9年(1581)には病死した東条松平家忠の養子となり、東条松平家を継ぎます。
この東条松平家は十四松平の一つで、松平家5代の松平長親の三男松平義春が初代です。 三河国の東条城を居城としたので東条松平家と呼ばれます
天正18年(1590)武蔵国忍(おし)城主10万石となり、井伊直政の娘を娶りました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦では舅の井伊直政と先駆けして名をあげました。
戦後、尾張国清洲城57万石を領有しました。(右上写真は現在の清州城です。)
慶長12年(1607)、関ヶ原の戦いの折に負傷した傷がもとで江戸でなくなりました。28歳の若さでした。
忠吉には跡継ぎがなく、遺領は、甲斐甲府城主であった異母弟義直が7歳で継承しました。この義直が御三家の一つ尾張徳川家の藩祖になります。
秀康と忠吉は、同じ年慶長12年に亡くなりました。忠吉が3月5日、秀康が閏4月8日でした。