第一は、家康が、後継者を秀忠としましたが、これは正しい選択だったということです。
関ヶ原の戦いの後、家康は後継者にするには、次男秀康、三男秀忠、四男忠吉のうちだれが適切かどうかについて、重臣に諮問しています。
そして、その意見を踏まえ家康が熟慮した結果、後継者が秀忠になったと先日書きました。
秀忠のライバルであった秀康と忠吉は、慶長12年(1607)に亡くなっています。
もし、秀康、忠吉のいづれかが後継者になっていたら、家康は慶長10年(1605)に将軍の座を譲っていますので、二代目将軍は短命で終わったことになります。
そして、慶長12年には、競争相手であった秀康と忠吉が同時になくなってしまったので、残る後継者は秀忠しかいないことになり、最終的には秀忠が後継者になり、徳川幕府の基礎を固めたということになるのではないでしょうか。
こう考えると、家康の選択は、長期政権を維持できる2代目を選ぶという点で、正しかったということになります。
第二は、幕府創世記には、予想外に家康の後継者が少なかったということです。
家康が天下を取り、それが長く維持できたという理由の一つに後継男子が数多くいたということが挙げられています。
それは、秀頼一人しかいなかった豊臣秀吉と比較すれば一目瞭然ですので、あたっていると思います。
しかし、そう言われるほど後継者が盤石ではなかった時期もあったということに気が付きました。
家康の子供は、男子は11人いました。しかし、秀康と忠吉がなくなった時点では、男の子は既に6人がなくなっており、生存している男子は5人しかいませんでした。(もちろん、5人もいたとも言えますが・・・)
慶長12年(1607)時点のそれぞれの年齢は次のようになります。
三男 秀忠 28歳
六男 忠輝 15歳
九男 義直 6歳
十男 頼宣 5歳
十一男頼房 3歳 となります。
義直、頼宣、頼房は、まだ幼くて、とても政権を補佐する能力はありません。
そして忠輝は家康が大変嫌っていました。
つまり、家康・秀忠は、子供・兄弟という点からみると、慶長12年の時点では、秀忠に代わりうる人物が非常に少なかったということが言えます。
ですから、家康・秀忠は、後継者や代行者の確保という点では、薄氷を踏む思いで、政権運営をしていたのではないかと思います。
また、尾張・紀伊・水戸の徳川家は御三家と呼ばれましたが、それぞれの初代は、尾張徳川家は九男の義直、紀伊徳川家は十男の頼宣、水戸徳川家は十一男の頼房ということになります。
三人とも、家康晩年の子供です。
なぜ、晩年の子供たちが御三家となったかというと、晩年の子供たちしか生存していなかったという事情があったことがわかります。
11人もいた家康の子供たちについては、信康・秀康・忠吉についてすでに書きましたが、それ以外の子供たちについてはまだ書いていませんので、明日書きます。