徳川秀忠は、いうまでもありませんが2代将軍です。
しかしながら家康と3代将軍家光の間で目立たない存在のように思われていますが、最近は、そうではないという説もかなり強くなっています。
秀忠は、天正7年(1579)に 浜松城で、家康の三男として生まれました。
母は西郷局です。母の出自については戸塚忠春の娘とも蓑笠之助の娘とも言われていますが、叔父の西郷清員の養女となって家康に仕えたと考えられています。
秀忠とすぐ下の弟忠吉の母が西郷局でしたが、西郷局は天正17年に28歳でなくなりました。
右写真は、新宿にある天龍寺ですが、このお寺は元々は遠江にあった法泉寺というお寺で、西郷局の父と言われている戸塚忠春の菩提寺でしたが、徳川家康が江戸に入った時期に、江戸に移されたといわれています。
秀忠の幼名は、「長丸」または「長松」を呼ばれていたと言われています。
福田千鶴九州産業大学教授は「徳川秀忠」(新人物往来社刊)の中で、「長丸」と書かれた軸が残されているが「長松」と書いた一次資料はないので「長丸」と呼ばれていただろうと書いています。
秀忠は、乳母の大姥局によって養育されました。
「姥」は通常は「うば」と読まれますが、「大姥局」は「おおばのつぼね」と呼ばれていたようです。
「大姥局」は、今川氏真の家来の河村善右衛門重忠の妻です。家康は、幼いころ人質として駿府にいましたが、その頃から「大姥」の人柄を知っていたので、秀忠が生まれたときに乳母としたと言われています。
左写真は池上本門寺の五重塔です。
この五重塔は、関東に4基しかない江戸時代以前に建立され五重塔の一つですが、この五重塔を建立したのは「大姥局」です。
15歳の秀忠が悪性の疱瘡にかかった際に、大姥局が病気平癒のお願いをしました。
その甲斐もあり、秀忠の病気が無事快癒したお礼に、慶長13年(1608)に建立されたものです。