天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの後、家康は秀康を名目上は秀吉の養子であるが実質は人質として上洛させましたが、小田原攻めが本格的に準備されるようになると、家康は秀忠も上洛させました。
天正18年(1590年)正月13日に秀忠は京都に着きました。この際に、大政所が髪を整えました。
家康公伝にも
大政所は 長丸の髪を結い直し、衣装までも着替えさせ、黄金作りの太刀を帯びさせたうえで、お供の井伊直政たちに「髪の結い方から衣装の整いまですべて 田舎じみているので京風に改めてお返しします。早速帰りなさい。」と言って秀忠を江戸に帰しました。
と書いてあります。
ただし、福田千鶴九州産業大学教授は、「徳川秀忠 江が支えた二代目将軍」の中で、これは秀吉の母の大政所ではなく、正室の北政所であったものを誤認したのではないかと思われると書いています。
しかし、福田氏はその根拠を書いていません。
また、この上洛の際、秀忠は元服し、秀吉が名付け親となり、秀の一字をもらい秀忠と名乗るようになりました。
そして、織田信雄の娘小姫と婚約もしています。家康と織田信雄は小牧・長久手の戦いの際には同盟して秀吉と戦った仲ですので、そうした関係も配慮されたと言われています。
しかし、小田原攻めの後、信雄が秀吉の意向に反して領知替えを辞退したため改易されたことにより、この婚約は破棄されました。
天正18年(1590)秀吉は小田原の後北条氏を攻めました。
この小田原攻めが秀忠にとっての初陣でした。この時、秀吉が自ら甲冑を取り出して秀忠に着せたと伝わっています。
文禄2年(1593)には、家康の重臣である大久保忠隣(ただちか)が秀忠付きとなりました。大久保忠隣は大久保一族の盟主であり武功派の代表格でもありました。以後、大久保忠隣は、秀忠の側近として重要な役割を果たします。
文禄4年(1595)には浅井長政の三女であり秀吉の養女であった江と再婚します。
これは、昨年の大河ドラマ「江」で取り上げられているので、多くの方ご存じだと思いますが、江は3度目の結婚でした。
秀忠は、以前信雄の娘小姫と婚約しているので再婚になりますが、実質的には初めての結婚です。
この時、秀忠は数え年17歳、江は6歳年上の数え年23歳でした。
婚礼は、伏見城で行われたとする書物が大部分のようです。
左上写真は現在の伏見城です。
慶長2年(1597)5月10日には千姫が生まれました。千姫が生まれて間もなくの6月16日に秀忠は江戸に向かい半年後の12月4日に京都に戻りました。
それからしばらく京都に滞在し、慶長3年8月18日に秀吉が死去した後、秀忠は江戸に向かいました。
その後、江も江戸に下り、関ヶ原の戦いで西上するまで江戸で暮らしました。