東照宮実紀付録巻6に、江戸に入った時のと山王社と平河天神および江戸城の様子について書かれています。
【平河天神と山王社】
まず、平河天神と山王社について次のように書かれています。
山王社は、現在の日枝神社です。家康が江戸に入府したころは、平河天神も山王社も、江戸城に鎮座していたことが書かれています。
関東に御遷移の頃、家康は榊原康政をお呼びになって、「江戸城内に鎮守の社はないのか」と御尋ねになられた。康政は「城の北曲輪に小さな社が二つあるのが鎮守の神でしょう。ご覧ください」といって家康を案内した。
小さい坂の上に、梅の木が数株植えてあり、その中に社がニ棟建っていた。
家康の上意に「大田道灌は歌人なので菅原道真の神霊を祀ったと思われる」と。
これが平河天神です。 現在は平河町に鎮座しています。右上の写真が現在の平河天神です。
家康はもう一方の社の額をご覧になると、直ちに拝礼なされ、「さて式部(榊原康政)、不思議なことがあるものよ」とおっしゃった。
康政が御側近くに進み寄ると、家康は「私は江戸城に鎮守の社がなければ、坂本の山王を勧請しようと前々から思っていたが、どのような縁があってか、ここに山王が安置されておる」とおっしゃった。
康政は平伏して「これも大変不思議で奇妙なことであるものです。そもそも江戸城に異変なく御家運が栄える佳瑞でしょう」と申し上げると家康の御機嫌は殊のほかよかったという。
その後、城塁が築かれていくと、山王の社を紅葉山に移され、さらに半蔵門外に移し、明暦の大火後に至って今の星岡の地に壮大に造営されて、徳川家歴代の産神となされた。
雷神の祠は平河門外に移したのを、また麹町に移して旧跡を保存された。今の平河天神がそれである。
上の文の中で星岡と書いてある場所が、現在の日枝神社が鎮座している場所です。左上は現在の日枝神社です。
【江戸城のこと】
次いで、江戸城のことが書かれています。
江戸城は、家康が入城した時は、非常に荒れていたと言われていますが、大変だったようで、本多正信がせめて玄関だけは修復しましょうと進言したのにもかかわらず、家康は笑ってそのままにしておきました。
江戸城は北条の治世下において城代であった遠山の屋敷や本丸から二の丸、三の丸までの古屋敷が残っていた。
多くは柿(こけら)葺きではなく、木を薄くけずって作った板などを用いて葺いていた。なかでも厨房の辺りは萱茨で大変すすけていた。玄関の階段板は幅が広い舟板を3枚ならべて階段とし、その他はすべて土間であった。
本多正信はこれを見て、「あまりにも見苦しい。他はそのままになさるとも、玄関は御造営なさるべきです。諸大名の使者なども見るだろうに、まことに面目を失います」と申し上げると、家康は「無駄に立派なことを云う」とお笑いになり、そのままにしておかれた。
最初に本城と二の丸の間にある乾堀を埋められ、さらに大小の御家人の知行割を急がれ、榊原康政を総責任者として、青山忠成と伊奈忠政の二人が奉行となり、微録の者ほど御城近くで知行地を拝領して、往来するのに一晩かかるほどの地は微録の者には与えるなとお命じになった。 以下略
この後、家康公伝には増上寺の存応上人との出会いについても書かれていますので、明日はそのことについて書きます。