まず町年寄(まちどしより)について書かれています。
町年寄というのは、江戸市支柱の各町内を支配する筆頭の町役人を言います。江戸の場合、樽屋、奈良屋、喜多村の三家が町年寄を世襲しました。
町年寄の仕事は、①町触(まちぶれ)の伝達や人別の集計などの町政一般、②市中の商人や職人の統制、③町奉行の諮問に対する調査や答申などの調査・調停事務があります。
さらに玉川上水が完成した承応3年から元禄6年までは一時期を除いて神田上水と玉川上水の管理も町年寄の仕事でした。
町年寄の住居兼役宅は三家とも日本橋にありました。奈良屋は本町1丁目、樽屋は本町2丁目、喜多村は本町3丁目にありました。
その町年寄について次のように書かれています。
樽屋藤左衛門という者は水野右衛門大夫忠政の七男弥大夫忠頼の子である。はじめは弥吉康忠といった。
長篠の合戦で酒樽を家康に献上したところ、家康は織田信長に贈られた。織田信長は大変よろこび、樽とよばれたことにより姓を樽と改め、遠州町々の支配を命ぜられたが、このたびの関東への御遷移により、又江戸市街の事をつかさどらさせ、神田玉川水道の事をも差配し、東国(東日本)の升の事の司った。
このほかに奈良屋市右衛門、喜多村喜右衛門という者も同様に家康の旧領より引き移り、樽屋と共に市中ならびに水道の事を差配した。
奈良屋は、大和国奈良に居住していて、天正10年の伊賀越えの際、忠節を尽くした小笠原小太郎が先祖です。奈良に居住していたため、奈良屋と名乗ったようです。
また、喜多村は文五郎という武士だったようですので、町年寄3家とも先祖は武士であったことになります。
なお、樽屋は升のことを司ったと書かれていますが、これは体積の単位を全国統一させるために、徳川幕府は、江戸と京都に升座を置き、升の製造・販売を独占させるとともに、升を検査する権利も与えましたが、その江戸の升座を樽屋が支配したことを意味しています。一方、京都の升座は福井作左衛門が支配しました。
升座を設け、体積を計る升を統一したのと同様に、 幕府は、江戸と京都に秤座を設け、重量を量る秤を統一管理しました。江戸の秤座を支配したのが守随家です。
その守随についても次のように書かれています。なお、京都の秤座は神善四郎が支配しました。
守随兵三郎という者は甲州で秤をうる商売をしていたが、守随も移封を知って速やかに江戸にやってきた。
多門伝八郎信清を頼り、井伊直政を通じて関八州の秤のことをお引き受けすることを願い出ると「はるばる甲斐の国からやってきて神妙なこと」とお思いになり、願い通りに許可され御朱印を与えられた。
右上写真は、日本橋にあった秤座の碑です。
明日は、家康の将軍宣下の様子を書きます。