この将軍宣下の時の様子が、家康公伝に詳しく書かれています。
人物名や朝廷の職階名がたくさんできます。特に職階名をいちいち覚える必要はありませんが、将軍宣下がどのように行われるのか雰囲気がわかっていただければよいと思います。
2月12日 宣下は伏見城で行われましたが、その宣下の前に、禁中で陣儀が行われました。
上卿(しょうけい)は広橋兼勝(ひろはしだいなごんかねかつ)が務め、奉行職事(ぶぎょうしきじ)は烏丸光広(からすまるみつひろ)が、弁は坊城俊昌(ぼうじょうとしまさ)が務めました。
陣儀が終わった後、勧修寺光豊(かんしゅうじみつとよ)が勅使として午前9時ごろに伏見城に参上した。
上卿・奉行職事はじめ月卿(げっけい)雲客(うんかく)は轅輿(ながえごし)に乗り、その他大外記の・官務はじめ諸官人は轎車(きょうしゃ)に乗って参上した。みんな束帯であった。雲客以上は城中玄関にて轅輿を下り、それ以下の者たちは第三門にて轎車を下りた。
この時、土御門久脩(つちみかどひさなか)が家康の衣服の着付けを行った後、紅の直垂(ひたたれ)をお召になった、午刻(正午)に南殿におでましになった。今日参上した人々は、諸大夫以上は直垂、諸士は素襖(すおう)を着ていた。
家康はまず勅使に御対面になって公卿は将軍宣下をお祝い申し上げた。次に上卿・職事・弁みな中段に進んだ。告使の中原職善(なかはらもとよし)が庭先に進んで、正面の階下において一礼し、磐折(けいせつ)して「御昇進」と2度唱える。その後、一礼して退いた。
次に広橋、勧修寺の二人は、上段第二の間の中程に左右にわかれて着座した。奉行・職事や参仕した弁等は第三の間で左右に別れて着座した。
その時に壬生孝亮(みぶたかすけ)が広庇(ひろひさし)に参上した。副使の中原職忠(なかはらもとただ)は征夷大将軍の宣旨を覧箱に入れて、小庇の方より持出て壬生孝亮に授けた。壬生孝亮はこれを上に高く差し上げながら進んだ。大沢基宥(もとゆう)が受け取って家康の御前に奉った。家康は謹んで頂戴し、宣旨は家康の御座の右に置いた。大沢基宥は覧箱を受け取って奥に入った。
家康の家来の永井直勝は、その箱に砂金の入った袋を二つ入れて大沢基宥に授けた。大沢宥是を奥より持って出て壬生孝亮に授けた。壬生孝亮は謹んで頂戴したのち退出した。
次に源氏長者の宣旨は押小路師生(おしこうじししょう)が持参した。大沢基宥が受取って家康の御前に差し上げた。宣旨の入った箱は大沢基宥が受け取って奥に入った。永井直勝は砂金一袋を入れて、大沢基宥これを奥より持って出て押小路師生に授けた。押小路師生は謹んで頂戴して退出した。その様子は将軍宣旨の際の所作に同じである。
次に官務が氏長者の宣旨を持ち出した。次に大外記右大臣の宣旨を覧箱に入れ持ち出した。次に押小路師生と壬生孝亮が牛車の宣旨を持ち出した。
次に隋身兵杖を許可するとの宣旨を大外記が持って出てきた。次に淳和奨学両院別当の宣旨を壬生孝亮が持もって出てきた。そのだびごとに家康は覧箱に砂金を一袋ずつ入れて賜はった。
次に職事・弁等が座を立ち、次に上卿・勅使が太刀・折紙を持って拝謁し、大沢基宥が披露した。次に職事・弁以下が太刀・折紙を持って出て、三の間の長押の内側で拝謁した。押小路師生以下は太刀を三の間の内側に置いて広庇で拝謁した。壬生孝亮、出納。少外記。史も同様であった。次に陣の官人・召使等は太刀は献上せず、広縁で拝謁して退出した。
以上です。
この将軍宣旨の様子を読んで気が付いた点がいくつかありました。
1、深井雅海氏の「図解江戸城を読む」に8代将軍吉宗の将軍宣下の状況が書かれていますが、徳川公伝の家康の将軍宣下の方が丁寧に書かれています。
なお、家康は伏見城、秀忠と家光は二条城で将軍宣下を受けていますが、4代家綱以降は、14代家茂まで江戸城に勅使を迎えて将軍宣下を受けています。15代将軍慶喜は、たまたま京都に滞在していたため、二条城で将軍宣下を受けています。
2、儀式のなかで、庭先から2回「御昇進・御昇進」と唱えている点は、おもしろいと思います。
3、大沢基宥が活躍していますが、この時は「高家」という職はありませんでしたが、「高家」としての勤めをはたしているようです。この将軍宣下の際の活躍があったため、大沢家は高家肝煎となっています。