家康は、将軍について2年で、将軍職を秀忠に譲りました。
秀忠は、慶長10年(1605)4月16日、伏見城で将軍宣下を受けました。
これに先立ち、正月、家康は江戸を発ち伏見城へ入りました。家康の御供は少人数でした。
一方、2月になって、秀忠も家康の後を追い上洛しましたが、秀忠の御供は関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて10万人を超える大規模なものでした。
これは、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先例を模したものでした。頼朝は建久元年(1190)に5万の大軍を率いて上洛しました。
家康は非常に頼朝を崇拝し、考え方や足跡に倣うところがあったといわれています。家康の愛読書の筆頭は「吾妻鏡」でしたし、関東に幕府を開いたのも頼朝に倣ったといわれています。
秀忠への将軍職の譲位の儀式は、建久の故事に倣ったものです。
また、当時はまだ大坂城に豊臣秀頼がいました。10万人という数は、いざ戦いとなった時には、すぐにでも戦える規模です。
10万もの大軍が上方に向かったため、本当の狙いは大坂城攻めだと勘違いされ、大坂方は一時厳戒態勢を敷きました。
秀忠の出発は3軍に分けて行われました。
先陣は、15日に榊原康政が出発し、16日から順に伊達政宗、堀秀治、溝口秀勝、上杉景勝らの外様大名が出発しました。さらにその後、蒲生秀行、本多忠朝、真田信之、大久保忠燐、大久保忠常、酒井忠世、浅野長重などが続きました。
24日は、秀忠の本陣が出発しました。
25日には、後陣が出発しました。松平忠輝、松平忠吉、松平康長、最上義光、佐竹義宣、南部利直、酒井家次が続き、最後は鳥居忠政でした。
3月21日、秀忠が伏見城へ入りました。そして、4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日に秀忠は第2代将軍に任じられ、建前上、家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになりました。
なぜ、家康は、こんな将軍職の交代を急いだかですが、定説では、豊臣方に、徳川政権が継続していくことを見せつけるためだと言われています・
しかし、小和田哲男静岡大学名誉教授は、次のようにも考えています。家康は、頼朝をモデルにして、江戸に幕府を開いたものの、そのまま東国に本拠を置いてしまうと、大坂方が頭をもたげてくる懸念を感じるようになりました。
そこで、家康は、豊臣家と豊臣を担ごうとする勢力が存在する以上江戸の将軍だけでは、豊臣方をけん制することが難しいと考えました。
そのため、将軍職は秀忠に任せ、家康自身は大御所として、大坂方対策と西国大名対策に力を入れようとしたのではないかと小和田先生は考えています。
そして、将軍職を譲ったため、隠居城が必要となり、家康が選んだのが駿府ということになりました。
駿府は江戸より大坂に近いため大坂対策に都合がよいという面が考慮されたかもしれません。
これにより、江戸と駿府に二つの政権が並び立つことになりました。
駿府は、司令部として機能し、江戸は実行部隊として機能したと言われています。

