江戸時代、街道には一里塚が設けられていましたが、これは、東照宮実紀では、秀忠が命じた施策であり、秀忠が将軍になる前の慶長9年2月4日に 秀忠が諸国に一里塚の設置と街道の左右に松を植えることが触れられ、5月に完成したとしています。
そして、一里塚には樹が植えられていて、その樹は榎の木が多いのですが、榎の木が植えられるようになったおもしろいエピソードも書かれています。
東照宮実紀巻八に次のように書かれています
2月4日 右大将(秀忠)の命令により、諸国の一里ごとに塚を築かせ、街道の左右に松を植えさせた。
東海道・中山道の両道は、永井白元(あきもと)と本多光重、東山道は山本重成と米津正勝が奉行となり、町年寄の樽屋藤左衛門、奈良屋市右衛門も永井らに属して一里塚のことを勤め、大久保長安がこれを総指揮した。その他、幕領は代官、私領は領主が沙汰し、5月に至って、一里塚の設置が成功した。
世に伝えるところによると、昔から諸国の里数制度があったが、国々によって異同が多かったので、近年、織田信長が領国内に 塚を築き、三十六町をもって一里と定めた。豊臣秀吉はあ、諸国を検地させ、一里を三十六町に定め、一里ごとに塚を築かせた。
この時に、改めて江戸日本橋を道程の始点に定め、七道に塚を築かせたという。その時に大久保石見守長安に、「塚に植える樹にはよい木を用いよ」との命があったのを、長安が誤って榎を植えたのが今日まで残っているとのことである。
なお、付録巻二十一(逸話編)では、一里塚の上の榎の木を植えたのは、良い木を聞き間違ったのではなく、余の木と言ったのを聞き間違えたとしていいます。
また、これを指示したのも家康であるとしています。
道程の里数も、織田右府(信長)の時より三十六町を一里と定め、一里ごとに塚を築かせ目印とされたのを、豊臣家でも引き続き採用した。
家康が関東へ移った後、同じく一里毎に塚を築き、その上に榎の木を植えさせた。
(このとき松の木植えましょうと申し上げたところ、余の木(余っている木または別の木)を植えよと家康が言ったのを聞き間違えて、榎の木を植えたという。
右上の写真は、北区にある西ケ原の一里塚です。中山道に築かれたものです。