今日は、大坂冬の陣・夏の陣について簡単に触れます。
家康の最後の課題が豊臣家をどうするかということでした。
慶長16年(1611)に二条城で秀頼と会見した家康は、改めて朝廷や京都での豊臣人気の高さに驚かされます。
そのため、家康は、豊臣家を滅ぼさないと徳川政権は安定しないし、日本も安定しないと考えました。
そこで、家康が生きているうちに家康の手で処理をしようと考えました。家康が手をつけることで、秀忠に汚名をきせず、家康自身が罪をかぶる覚悟だったと言われています。
ですから、大坂攻めの意思決定は家康が行い作戦も家康が立てました。
一方、秀忠は、関ヶ原の戦いの時の大失態を繰り返せば、武将として資質が問われかねないと考えました。
そのため、秀忠が率いる直属軍が猛スピードで大坂に向かいました。
2月23日に江戸を出発し3月9日に膳所に到着しました。
日本橋から大津まで約490キロあります。
秀忠は6万の軍隊を率いていましたが、平均で40キロ進んだことになります。多い日には70キロ~80キロも進んだ部隊もあったといいます。
あまりのスピードぶりに、家康は、秀忠に書状でもって、「大軍が行程を急がせると兵馬が疲労する。ゆっくりと来るように」と申し送って注意しています。
しかし、秀忠としては、11月3日に、先陣が大坂城を取り囲んだ状況では、遅参は絶対許されないとして、大急ぎで進軍させたようです。
また、11月19日の軍評定の際、即時総攻撃を主張していますが、これも、関ヶ原の際の失点を回復するために強硬策を述べたと考えられています。
徳川方は20万の大軍で大坂城を攻撃しました。
しかし、よく知られているように、天下の名城と言われた大坂城を落城させられませんでした。
12月19日に堀を埋めることが条件に講和がなりました。
埋め立て工事は、予想以上のスピードで進められ、正月19日には惣構の堀、三の丸、二の丸の堀すべてが埋め立てられました。
秀忠は、予定の工事が完了したのを見届け正月28日京都をたって江戸に帰りました。
しかし、大坂方は堀の復旧工事を開始したため、再び大坂攻めのため4月21日には伏見に到着します。
そしていわゆる大坂夏の陣が始まり、5月7日に大坂城が落城します。
この際に、千姫は、徳川方の岡山の陣に送り届けられました。
家康は千姫の無事を喜んだが、秀忠は城を出てきたのは見苦しいと言って面会しなかったそうです。