一方、「徳川将軍15代」の方は、「家康の最期」を書けば家康については一区切りがつきます。そこで、「家康の最期」を書いてから、岡崎・彦根・吉良の旅行記を書きます。
徳川家康は、元和2年(1616)4月17日に亡くなりました。
この年の正月、駿河の田中で鷹狩りをしていた時に具合が悪くなりました。
東照宮実紀附録十六巻には次のように書かれています。
元和2年正月21日に駿河の田中で鷹狩りをした。
そのころ茶屋四郞次郞が京からやって来てお会いになり、さまざまなお話をお聞かせになると、近ごろ上方で何ぞ珍らしいことはないかと尋ねた。茶屋四郎次郎は「あります。最近の京や大阪の邊では、鯛をかやの油であげて、その上にニラをすりかけたものが流行しており、私も頂きましたが大変良い風味でした」と言いました。
ちょうど折よく 榊原內記淸久から能浜の鯛が献上されたので、すぐにそのように調理を命ぜられて、めし上られたところ、その夜から腹痛にお苦しみになり、すぐに駿城へ戻り療養した。一 旦は容態が落ち着かれた樣に見えたけれども、お年をとっているため、ぶりかえして再度お苦しみになられ、順調に回復しなかった。
その後、療養に努めますが、病気は快復しませんでした。
連絡を受けた将軍秀忠は、急いで駿府に向かい自ら看病しました。
朝廷も諸寺社に祈祷させるなどするとともに、3月27日には太政大臣に任じました。 しかし、病状は、次第に悪くなり、快復の見込みがなくなりました。
東照宮実紀附録十六巻には、諸大名や幕閣に最期の指示をしている様子が描かれていますが、亡くなる前日の項に「三井の御刀」のことが書かれています。
4月16日納戶番の都築久大夫景忠を呼んで、常日頃から愛用してご秘蔵の品である「三池の御刀」をとり出させて、町奉行彥坂九兵衛光正に授けて試し切りをするよう命令された。光正が久大夫と共に刑塲に行き、しばらくして帰ってきて、「命令のように罪人を試し切りしたところ、心地よく土壇まで切込みました」と申し上げると、「枕刀と取り替えておけ」とおっしゃり、2度3度と刀を振り、この剣の威力によって子々孫々の末までも鎭護すると宣言し、榊原內記淸久に、のちに久能山に收めるように仰せつけられた。
「三池の御刀」というのは、家康の愛刀で、三池の名工 典太光世が作ったと言われているものです。現在も久能山東照宮に保存されています。
そして4月17日の家康の最期について東照宮実紀は次のように書いています。
17日すでに家康の病状がだんだんと重くなったときに、本多上野介正純を呼んで、將軍家に早々来るようにと仰られたが、また「それに及ばず」とのお考えで、「私が死んだ後も、武道の事少しも忘れてはいけないと申上げるよう」と仰られたのを最期に、淸久の膝を枕にしてお亡くなりになったという。
この淸久は榊原七郞右衛門淸正の三男で、早くからお側近くに仕えていてご寵愛は浅くはなかった。御病気中も日夜お側で看病して。さまざま御遺言を承り、「私が死んだら、遺骸は久能山におさめるように。墓はかくかくしかじかとするように。お前は末永くこの地を守って、私に生前に変わらず仕えるように」など言い置かれた。
そして、東國の方は大部分が譜代の者なので、謀反の心があるとも思われない。 西國のかたは不安に思うので、私の像を西向に立てて置くようにと言い置かれて、あの三池の刀も刀の鋒を西にむけて立てて置いたといいう。
家康は西を向いて埋葬されたという説もありますが、家康公伝によれば木像が西向きに置かれたこととなっています。
東照宮付録巻十には
御亡骸は、亡くなったその夜に久能山に納め、神として崇め奉った と書かれています。
家康の遺言により、遺骸は久能山に葬られ、葬儀は夜行われています。
さらに、東照宮実紀付録巻二十五には
家康は「伝え聞くところによれば、昔、藤原鎌足は、摂津国安威に葬られ、1年後に大和国多武峰に改葬されたとか。私がなくなった後には、この例になぞらえて、遺骸をまず駿河の久能山に葬り、3年後に下野国の日光山に移すように」との遺命があったので、天海和尚も泣く泣くお請けした。
この遺命により、翌年の元和3年(1617)、家康は、日光に改葬されています。これが日光東照宮です。
右上の写真は久能山東照宮です。