もともとこのことを書こうと思っていたのは、mikawaさんのコメントにもあったように江戸検定1級のテキスト「博覧強記」の中に、久能山総門番が榊原家で四天王の榊原康政の甥と書いてありますが、どうして、四天王の一人に数えられるほどの人物の甥が旗本であったのか疑問に思っていたからです。
今回、東照宮実紀を読み、さらに「寛政重修諸家譜」を読んで、その理由がわかりました。その理由は、家康が、榊原家の祖榊原淸久に東照宮と久能山を警護するよう言い残したからです。
今日は、その榊原淸久(夢告により照久に改名)について、「寛政重修諸家譜」に基づいて書いていきます。
榊原淸久は、榊原淸政の次男です。父榊原淸政は、榊原長政の長男で、有名な徳川四天王の一人である榊原康政の兄です。つまり淸久は榊原康政の甥になります。
父淸政は、病弱のため、家康の関東入府後に康政が城主であった館林で閑居していましたが、慶長11年(1606)に武蔵国忍で鷹狩りをした時に家康に呼び出されて駿河の久能城は要害の地であるため、これを守るよう命じられました。淸政は久能の地に赴きましたが、慶長12年(1607)に亡くなりました。
榊原淸久は、慶長5年(1600)、はじめて家康に御目見してより御側に仕えました。
慶長12年(1607)5月、父淸政がなくなったため、久能山の城番を命ぜられ、駿河国有渡郡で石高1800石を賜りました。
大坂の陣に従軍するようお願いしましたが、久能山は要所の地であることから久能山に留まって守るよう家康から命じられました。
元和2年(1616)4月17日、家康薨去の際、祭祀を司りました。これは東照宮実紀にもあるように淸久が平生真面目に仕えていたため、家康から将来に亘って家康をお護りするようにという遺言があったためです。
秀忠が25日に久能山に詣でた際に、「近臣が大勢いる中で家康が特に選んだことは名誉なことである。疎かにしてはならない」と特にお話があったそうです。
元和3年(1617)8月28日、夢枕に家康のお告げを受け、諱を照久に改めます。元和4年(1618年)5月13日、従五位下内記に叙任。同年6月24日、従四位下にすすみました。
元和8年(1622年)6月20日、従二位になりました。同年8月上洛し、12日、昇殿を許されました。
正保3年(1647)8月7日に久能でなくなりました。寛文4年、照久の息子照淸が久能山の地に寺を建立し照久寺と名付け、ここに埋葬されています。
照久寺は現在は、宝台院別院となっています。
清久の子孫は代々久能山総門番として東照宮と久能山の守護の役目を継承しました。
そして、交代寄合となり江戸に参勤し、江戸城では帝鑑間詰めとされました。
さて、交代寄合とは、参勤交代を義務付けられていた旗本を言います。
参勤交代は1万石以上の大名に課せれた義務ですので、1万石未満の旗本は参勤交代する義務はありませんでした。しかし、旗本でありながら例外的に参勤交代を義務付けられた家がありました。これが交代寄合です。
交代寄合は幕末期には30数家ありましたが、その出自は、①かつて大名であった家の名跡を継いだ家、②大名家の分家、③江戸時代以前から続く土着の旧家などでした。
交代寄合については「博覧強記」が詳しく説明しています。

