家康は、一般に鯛のテンプラを食べて具合が悪くなったと言われています。
このことは先日引用した東照宮実紀にも書かれています。
しかし、篠田達明氏の「徳川将軍15代のカルテ」には、鯛のテンプラによる食中毒ではなく胃ガンだという説が次のように取り上げられています。

「江戸時代医学史の研究」を書いた医学史学者服部敏良博士は、家康の死因は胃ガンではなかったかと指摘する。その根拠として、家康はしばらく前から食欲がなく、からだが徐々にやせてきたこと。侍医の触診にて腹中にしこりにふれたこと。もし鯛のテンプラによる食中毒で死亡したならば数週以内で決着がついたはずだが家康がなくなったのは発病から3か月もかかったことなどをあげている。
服部博士は家康の胃ガンは以前から発症していて鯛のテンプラが症状を顕在化させる引き金になったのではないかとも推測する。
このように服部博士の胃ガン説を紹介したうえで、 篠田達明氏も
がんはしばしば家系的にみられるが、のちに述べるように息子の秀忠や孫の水戸光圀も消化器がんでたおれたことや、臨終間際まで意識があったこともがんの発症をうたがわせる。
と書いていて、服部説に同意しています。
家康はみずから薬を調合しました。
家康の遺産を書き上げた「駿府御分物御道具帳」には、家康が使用した薬種と製薬道具が記録されているそうです。
家康が調合した薬には、「万病円」「寛中散」「銀液丹」などと名付けられた薬があるそうです。このうち「銀液丹」という薬は、主成分に水銀とヒ素を使用したものです。水銀やヒ素は毒薬ともなるものです。これを毎日飲み続けることにより、毒に対する抵抗力が強くなると家康は考えていたようです。
このように家康は薬について一家言をもっていたことから、医師の片山宗哲が注意すると家康の逆鱗に触れ信濃国諏訪に流されてしまったという逸話も「徳川将軍15代のカルテ」に書かれています。
家康は、生涯を通じて非常に壮健でした。
東照宮実紀の付録巻二十三には
家康は、若年のころより70才余りまで、毎日必ず馬に乗り、鳥銃は3発、弓も的あるいは巻藁へ射ることを日課のようにしており、少しも怠ることはなかった。その精力のほどは並の者が及ぶところではない。
と書かれています。
この壮健さは、日頃の心身の鍛錬によったと言われています。
剣・弓・乗馬などの武道はもちろん水練によって身体を鍛えていました。大好きであった鷹狩りも健康維持のためでした。
さらに食事にも細心の注意を払っていました。
東照宮実紀には、夏の日にはいつも麦飯を食べていたこと、信長から桃の実が一籠贈られてきた際にすべて分かち与えて、それを聞いた武田信玄に「家康は養生を第一として季節はずれのものは食わぬらしい」を言わさせたこと、また鷹狩りの際には。あらかじめ料理をする場所を定め、常に焼いた食べ物を食べたことなどが書かれています。
これらを見ても、食事にも細心の注意を払っていたことがわかります。
この間、徳川将軍15代のうち初代家康について書いてきました。まだ家康が東照宮として日光に祀られる経緯など書きたいこともありますが、家康ばかり書くわけにもいきませんので、適宜追加して書くことにして、家康については、家康についての記事は、今回でもって一区切りをつけたいと思います。
左上写真は岡崎城の徳川家康像です。

