徳川家康が関東に移封された後に、田中吉政は5万石で岡崎城主となりました。
田中吉政は、豊臣秀次の筆頭家老も務めていましたが、隣の尾張国には豊臣秀次が入りました。
豊臣秀次が罰せられた際にも連座することなく、逆に加増され、最終的に10万石の大名となりました。
吉政は岡崎城の造営、田中掘を築造、城下町の整備などを行いました。
さらに、本来岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎の城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の27曲がり」といわれるクランク状の道に整備しました。こうして近世岡崎の原型を造りました。
関ヶ原の戦い後、田中吉政は筑後32万5千石で柳川城に移りました。
この後に、慶長6年(1602)に徳川氏譜代の重臣本多康重が上野国白井藩より5万石で岡崎城主となりました。これが、岡崎藩の立藩となります。
本多家は、いろいろな系統があります。最も有名なのが本多忠勝の系統でしょう。徳川幕府初期には、本多正信・正純の系統も大変力をもっていました。また、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の日本一短い手紙で有名な本多重次【別名:鬼作左】の系統もあります。
岡崎藩の初代藩主となった本多康重は、前述の系統とは異なる本多家で、広孝系本多家などと呼ばれます。
本多康重は、本多広孝の長男です。
父広孝は家康に仕え東三河攻略に活躍し田原城を拝領しました。
康重は、永禄5年(1562年)、元服し主君の徳川家康から片諱を与えられました。
永禄12年(1569)、掛城攻めにて初陣を果たし、天正5年(1577)、家督を継ぎました。
小田原征伐後に家康が関東に移封された際に、上野国白井城2万石を与えられました。
そして、関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)に加増され三河岡崎藩5万石を拝領しました。
慶長16年(1611)死去し、後を長男康紀が継ぎました。
第2代藩主康紀は康重の嫡男として田原で生まれ、家康から諱をもらい康紀と名乗りました。
康紀の時代に、岡崎城の天守が築かれています。
第3代藩主は、忠利で、秀忠から諱をもらっています。
寛永11年(1634)、家光が上洛する際に饗応し5000石の加増を受けました。
第4代藩主は利長で、正保2年(1645)、利長は家督を継いで1か月あまりで遠江国横須賀藩5万石へ移封されました。
本多家の後には、三河吉田藩から水野忠善が5万石で入りました。
水野家は、家康の母於大の方の実家です。
水野家も本多家と同様に多くの大名を輩出しています。
岡崎藩の藩主となった水野家は、於大の方の弟水野忠守を初代とする家柄で、忠守の子忠元が常陸国山川で3万5千石を拝領し大名となりました。この系統が水野家宗家を称していたそうです。
水野忠善は、忠元の嫡子にあたります。
忠善は、譜代大名としての意識が強く、かねてから岡崎への転封を希望していたそうです。
滝山東照宮には、水野忠善が奉納した鳥居が残っています。(左上の写真)
この後、第2代藩主の野忠春は奏者番・寺社奉行に任じられています。
忠春の子忠盈( ただみつ)が3代となりますが、子供がなく弟の忠之が第4代藩主となります。
忠之が藩主の時に、赤穂事件が起こり、赤穂浪士9名を江戸三田屋敷に預かっています。
JR田町駅の駅前の慶応大学に向かう路地に、「水野監物邸跡」について港区教育委員会が建てた説明板があります。(右写真)
忠之は老中となり8代将軍吉宗の際に筆頭老中として享保の改革にも取り組んでいます。
第5代藩主は忠輝です。
第6代藩主忠辰は、祖父忠之から聞かされていた吉宗の改革にならい藩政刷新を目指しました。
忠辰は、改革に抵抗する保守派家老を隠居させて藩政改革に取り組みますが、保守的な上士層の政務ボイコットも起こったことから、保守派に妥協し改革は失敗します。
忠辰は保守派によって江戸屋敷の座敷牢に押込られ、失意のうちに29歳でなくなりました。
第7代藩主忠任の時、宝暦12年に肥前国唐津藩6万石へ加増移封されました。
なお、この水野家から、天保の改革を実施した水野忠邦が出ています。
水野家の後、松井松平家が入り、その後に本多忠勝の系統の本多家が入り岡崎藩は明治の版籍奉還まで本多家が藩主として続きました。
それについては、明日書きます。