大手門大手門は、岡崎公園の入り口になります。
国道1号沿いに平成5年に建てられました。
高さ11m、幅16.4mの門。石垣には地元産のみがげ石を使用し、入母屋造りの屋根には江戸物本瓦が葺かれています。
岡崎公園の玄関として、岡崎の観光シンボルとなっています。
本来の岡崎城大手門は、現在地から北東に約200メートルの所にありました。
江戸時代の大手門は桁行10間、梁行2間4尺だったそうです。
岡崎城二の丸御殿の井戸岡崎城の二の丸は、本丸の北東部にありました。そこにあった二の丸御殿がありました。
現在は、家康館が建っています。
この二の丸御殿にあった石組みの井戸が平成19年度の発掘で見つかったものです。
本多平八郎忠勝公銅像本多忠勝の系統の本多家が明和6年(1769)から明治まで岡崎藩主であったので、本多忠勝の銅像が二の丸にあります。
本多忠勝の持つ槍は、「蜻蛉切」と呼ばれる名槍です。
本多忠勝が持つ槍だからさぞかし長いだろうと思いましたが、約3.5メートルです。
大将は騎馬で槍を使うため、馬上で使いやすいように1間半(2.7メートル)から2間(約3.6メートル)の槍を使用したようです。
しかみ像平成19年に徳川宗家18代当主徳川恒孝氏が寄贈したものです。
説明板に次のように詳しく書かれていました。
世に云うしかみ像『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自我の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。
このしかみ像は、かの画像を基にして製作された石像です。
元亀3年(1572年)10月3日、2万7千の大軍を率いて甲府を出発した壮年武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、12月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に青年家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。
命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。
自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと云われます。
東照公産湯の井戸徳川家康は天文11年(1542年)12月26日に岡崎城二の丸で誕生しました。
誕生の際に、この井戸水を産湯にしたと伝えられています。
本丸の北西部にあります。
なお、家康の産湯は、現在の豊田市松平町にある松平館の井戸からも運んだという説もあるようです。
東照公えな塚家康が誕生した際、えな(胎児を包む膜や胎盤など)を埋めたと伝えられる場所です。
現在のえな塚は、天守の西南部にありますが。本来は、本丸の南にあったようです。

