今日からは、家康死後の秀忠の施策等について書いていきます。
家康は元和2年(1616)4月17日になくなりました。
家康の死によって江戸と駿府の二元政治は終了します。
これ以降、秀忠が自立するとともに秀忠の独自政策が展開されてきます。
秀忠は、元和3年6月14日に、数万の大軍を率いて上洛しました。
上洛軍は、一番伊達正宗、二番上杉景勝、三番佐竹義宣、四番戸田康長、五番蜂須賀至鎮、六番本多正純、七番土井利勝、八番酒井忠世、九番将軍秀忠。十番安藤重信、十一番鳥居忠政、十二番蒲生秀行という陣容でした。
これは軍事指揮権を秀忠が把握したことの示威行動ですが、これとともに、西国の大名の転封を行い、譜代大名の西国進出を実現するためでした。具体的には、姫路藩池田家が鳥取藩に移封され、姫路城(右写真)には本多忠勝の子本多忠政が桑名藩から22万石で入り、播州明石には、信濃松本藩から小笠原忠真が10万石で、播磨龍野には、本多政朝(忠勝の孫)が上総大多喜から5万石、さらに摂津尼崎には近江膳所から戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入りました。これらは全員譜代大名です。
この転封以前、譜代大名は丹波笹山藩5万石の松平康重と亀山藩3万6千石の岡部長盛が最も西でした。 この転封により、譜代大名の勢力が播州まで進んだことになります。
さらに、この上洛を機に、秀忠は大名、公家、寺社に領知朱印状を交付しました。
家康は領知朱印状はほんの一部しか発行しませんでした。
秀忠による領知朱印状の発行が最初であり、以後、将軍の代替わりごとに交付されることになります。
秀忠は外様大名を含む全国の諸大名と公家・寺社に領知朱印状を発行することで、徳川将軍家が日本全国の土地に対する領知宛行権(りょうちあてがいけん)を掌握していることを明らかにしました。
秀忠は家康と比較すると存在感が薄いイメージがありますが、この徳川幕府による領知宛行権の独占を実現したことによって、徳川将軍家の長期政権の礎石を築いたと言えます。
元和3年の上洛は、秀忠みずからが京都に出向き、京都に全国の大名を集めて、将軍の優位性を示すためのものでした。
こうした優位性の中で、秀忠は、強力に大名統制を行っていきます。
大名統制のお話は明日以降します。

