徳川幕府が開かれてから秀忠の代までの大名配置は、有力外様大名の改易に伴い、3回大きく変わりました。
最初は、元和元年の豊臣氏滅亡そして元和3年の秀忠の上洛により、畿内から播磨まで、譜代大名が進出しました。
次いで、元和5年に福島正則が改易になった時に大きく変わりました。
福島正則が改易になった跡には、紀州藩主浅野光晟が広島に42万石で移り、和歌山には駿府から徳川頼宣を移しました。大坂城は幕府直轄として、大坂城主松平忠明を大和郡山に、大和郡山の水野勝成を備後福山10万石に移しました。
水野勝成は、譜代大名として初めて中国地方へ進出しました。
3回目が、最上家を取り潰した時です。
元和8年出羽山形の最上家57万石を取り潰した後には、山形には鳥居忠政を磐城平から10万石で移し、出羽庄内には信州松代から酒井忠勝(四天王酒井忠次の孫)を13万石で入れました。
この転封により、それまでほとんど外様大名が占めていた奥州に譜代大名が進出しました。
秀忠は、23家の大名を改易していますが。大名の配置が大きく変わるきっかけとなった有力外様大名の改易のうち、①福島正則の改易と②最上家の改易について書いてみます。
福島正則は、豊臣秀吉の近親者であり、秀吉の子飼いの勇将として名が轟いていました。
関ヶ原の戦いでは、石田三成犬猿の中であったたため、家康を支持し、先鋒として戦いました。
戦後、尾張清州24万石から安芸広島藩49万石8200石に加増されました。
しかし、豊臣恩顧の大名として、幕府から常に警戒されていました。
そのため、福島正則も慎重に対応していました。
しかし、元和5年(1619)、洪水で破壊された広島城を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反に問われます。
正則は、本丸を除き、二の丸・三の丸を壊すことを了解しましたが、なぜか破却を命じられた二の丸・三の丸をそのままにしていたため、咎められました。
修理工事の件は、正則は事前に本多正純に相談し、了解を取り付けてあったという説もありありますが、それでも、信濃国川中島4万5千石に減封・転封されます。そして、最後には、福島家は、旗本まで身分を落とされます。
この改易処分は、豊臣恩顧の大名つぶしと言われています。
また、広島城受取のため、中国四国のほとんどすべての大名が出陣したことにより。家康が生きている時代には東国大名に限られていた秀忠の軍事指揮権が、西国大名にまで及んだことを示すことになりました。
山形藩最上家の改易は、最上騒動とも言われています。
山形藩最上家初代の最上義光(よしあき)は、豊臣秀吉の全国統一以降は、出羽山形24万石を領し、関ヶ原合戦後は57万石(52万石とも)を領することになりました。義光の死後、次男の家親が跡を継ぎますが、36歳の若さでなくなり、その子義俊が継ぎましたが、義俊の叔父義忠を藩主にしようというお家騒動となり、元和8年(1622)最上家は改易され、義俊は近江に移され一万石を領しました。また、義俊も26歳の若さで死去し、跡を継いだ義智が2歳だったため、5千石に落とされ、義智一代は高家をつとめましたが、子孫は交代寄合として、明治を迎えました。
秀忠は、凡庸な将軍とのイメージがありますが、福島正則や最上家などの改易にあったって強い決断力を発揮したと言われています。
その決断力は、将軍家の身内の大名に対する改易にも発揮されます。

