大久保忠隣の改易は、家康が存命中の慶長19年に起きたことで、少し時間をさかのぼることになりますが、重大な事件ですので触れておきます。
大久保忠隣は、徳川家 大久保忠世の長男です。
小さいころから、家康に近侍し、数多くの戦いを経験し軍功を重ねました。
家康の関東入国の折、武蔵国羽生2万石を拝領し、文禄2年(1593年)には家康の三男・徳川秀忠付の家老となりました。
そして、家康が将軍を引退し大御所となって駿府・江戸の二元政治が行われようになると江戸の幕閣の中心人物として活躍しました。
この大久保忠隣が突然改易になります。
大久保忠隣は、慶長18年(1613)12月19日にキリシタン取り締まりのため上洛するよう命令を受けます。
そして、京都に到着して2日後正月19日に京都所司代板倉勝重が宿舎に赴き所領没収のうえ近江に配流と伝えました。
大久保忠隣は、彦根で、井伊直孝の保護のもと、寛永5年(1628)75歳で死去しました。
彦根の龍潭寺参道脇には『大久保忠隣公幽居之址』碑が建てられています。(右上写真)
そして、隣の清涼寺には、井伊家の墓所の一画に大久保忠隣の供養塔が建てれています。(左写真)
5月のゴールデンウィークに彦根に行きました。
井伊家の菩提寺である清凉寺に行きましたが、井伊家の墓所をお参りさせてくださいとご住職の奥様にお願いしたところ、「本堂の裏手です。そこには「オオクボチュウリン」の供養塔もあります」との説明でした。
「うむ、オオクボチュウリンって誰だろう」と一瞬考えました。そして、「ああ、大久保忠隣だぁ」と思いました。
予定していなかった大久保忠隣との供養塔とのめぐりあいです。
そして次に龍潭寺に行きました。素晴らしい庭園、板絵などを見て、参道を歩いて帰ろうとすると、思いがけず『大久保忠隣公幽居之址』碑が目jの前に出てきました。
こちらも特に説明板もありません。多くの人が気が付かずに通り過ぎてしまうのではないだろうかと思いながら写真を撮りました。
この大久保忠隣の失脚は、本多正信・正純父子との対立が根底にあります。
家康が天下統一の過程では、武断派が力をもっていましたが、天下安定してくると吏僚派が力をもってきます。
武断派と吏僚派の対立が激しくなってきました。
大久保忠隣は武断派の中心人物で、本多正信・正純父子は吏僚派の中心人物でしたので、二人の対立が激しくなり、いくつかの事件が起きました。
大久保忠隣の失脚に至るまでに、慶長17年(1612)の岡本大八事件、慶長19年(1614年)大久保長安事件がありました。
岡本大八事件は、本多正信・正純の家臣であった岡本大八が有馬晴信に対して詐欺を働き処罰された事件です。
これにより、本多正信・正純父子の勢いが一時そがれました。
なお、岡本大八の父は岡本平左衛門といい、築山殿を主命により殺害した人物であり、こうなったのは築山殿の祟りだとうわさされたと言います。
ついで起きた事件が大久保長安事件です。
大久保長安は元武田家の家臣でしたが、その才能を認められて家康に取り立てられ、大久保忠隣の庇護を受けるようになり、大久保の姓を名乗りました。
長安は家康の期待に応えて金山奉行や代官頭等を歴任して幕府財政を大きく支えました。
この長安の死後、多くの不正が暴かれ、姻戚関係者を含む多くの人が処罰されました。
これも、本多正信・正純父子の謀略による大久保派攻撃だったとも言われています。
この事件の延長に大久保忠隣の改易があります。
この改易については、家康の意向も働いていて、江戸の将軍の勢威を超えかねない大久保忠隣を処断したという説もあります。