家康は、徳川家から女子を入内させ天皇の外戚となることによっても、朝廷との関係を緊密にしておこうと考えました。
そこで、慶長12年(1607)10月4日に生まれた秀忠と江(崇源院)夫妻の5女の和子を入内させようと計画しました。
慶長17年(1612)には後水尾天皇が即位したため、家康は和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614)4月に入内宣旨が出されました。
しかし、入内はこの年の大坂の冬の陣、そして翌年の慶長19年の夏の陣、元和2年(1616)の家康の死去、元和3年(1617)の後陽成院の崩御などが続いたため延期され、ようやく、元和4年(1618)に女御御殿の造営が開始されました。
しかし、この段階で後水尾天皇の寵愛する女官「およつ御寮人」が皇子賀茂宮を出産していたことが判明し、大問題となりました。
翌年元和5年には秀忠自身が上洛して参内し、天皇の近臣の万里小路充房(までのこうじあつふさ)を丹波笹山に、「およつ御寮人」の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を豊後に配流しました。
これに対して後水尾天皇は譲位の意向を表明し抵抗しました。これを翻すため藤堂高虎と京都所司代の板倉重宗の奔走により天皇も譲位を取りやめることとなりました。
そうして、元和6年(1620)11月28日に後水尾天皇の女御として入内しました。
和子14歳、後水尾天皇25歳でした。
この入内に幕府は70万石の費用をかけたとも言われています。このときは二条城からの行列は大変豪華でした。「東福門院入内図屏風」にはその様子が描かれています。
入内後、後水尾天皇の生母中和門院(ちゅうかもいん)の気遣いのもと、二人の仲もよく、元和9年(1623)6月には秀忠と嫡男家光が将軍宣下のため上洛した際には懐妊しており、11月19日には皇女 女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生しました。
この時の上洛の際、秀忠は家康の与えた1万石に追加して、さらに1万石を寄進しています。
和子は寛永元年(1624)には中宮に冊立(さくりつ)されました。
女御は、本来は天皇の後宮女官の一つに過ぎず、かならずしも地位は高くはありませんでしたが、平安時代に摂関家の娘が女御になると地位が上昇し、正式に内裏に入る儀式が「入内(にゅうだい)」として行われるようになりました。
南北朝以後は入内の儀式も廃絶してしまいましたが、後陽成天皇の時、近衛前子(中和門院)の入内儀式が復活し、和子の入内もそれに続くものでした。
また「中宮」は本来皇后の居所を表す言葉が皇后の別称となったものです。中宮の冊立儀式も南北朝以来途絶えていましたが、この時に復活しました。
和子は、女一宮を初めとして二皇子五皇女を生みました、夫婦仲は良かったと言えます。しかし、皇子は幼くしてなくなり、後水尾天皇が譲位した後に女一宮が即位し明正天皇となりました。
これにより、秀忠は、天皇の外戚となり、当初の目的は達せられました。
しかし、幕府の支配体制が確立してきて、朝廷の政治的意味が薄れてきたため。将軍の娘の入内も和子一人で終わってしまいました。
ところで、和子の実母はお江といままで言われてきましたが、実は生母は越後国古志郡栖吉城本庄慶俊の娘妙徳院とする説があります。
福田千鶴氏は、江が死去した際に朝廷で今上天夫妻の服喪や触穢が問題となった形跡がまったくないことから、和子は秀忠の庶出子と考えていると「徳川秀忠 江が支えた二代目将軍」で書いています。
また小和田哲男氏は「徳川秀忠 凡庸な二代目の功績」の中で、
以下の事が判明してきていることから、かなり可能性が高いとみていると書いています。
①彼女の位牌に「勅特賜妙徳院殿廣次上人青木軒山道般庵主」と記されていて「勅特賜」という表現は朝廷との関わりが考えられること。
②彼女が天海により剃髪され、蔵王堂に入った時に寺領が300石あったこと
③地元の伝承や系図から、妙徳院は本庄慶俊の娘で、堀直寄の推挙で秀忠の側室となり和子を生んだとされていること
また、以前から小和田氏は、お江は和子を生む前年の5月7日に忠長を生んだばかりであり、生理的に無理があると考えていたそうです。