まず、家光の誕生についてです。
家光が誕生したのは、慶長9年(1604)7月17日です。
秀忠の次男として生まれました。秀忠には、慶長6年に長丸が生まれていましたが、誕生後間もなく早世していたため、家光は嫡男として扱われ、家康と同じ幼名竹千代を与えられました。
ところで、家光誕生の前年の慶長8年2月12日に祖父の家康は征夷大将軍となっていました。 家光が「生まれながらの将軍」といわれる由縁です。
川越の喜多院には、「家光誕生の間」が残されています。
川越の喜多院は、寛永15年(1638)に起きた川越大火により、山門以外の建物が全焼します。家光は、喜多院再建のため、江戸城紅葉山の御殿を解体し喜多院に移築しました。
それが、現在の喜多院の客殿、書院、庫裏です。
その客殿の中に、家光誕生の間があります。
客殿は、5部屋からなっています。その5部屋のうちの最も西側の部屋が『家光誕生の間」で12畳半で床の間や違い棚が設けられています。
家光の誕生に伴い、明智光秀の老臣である斎藤利三の娘であり、小早川秀秋の重臣であった稲葉正成の妻福(後の春日局)が乳母となりました。
さらに誕生後間もなく稲葉正勝・松平信綱らの小姓が付けられました。
喜多院の客殿に隣接している書院には、家光の乳母の「春日局化粧の間」も残されています。
喜多院の客殿・書院・庫裏は、撮影禁止です。写真は、外から撮影した客殿です。
長丸を生んだのは、秀忠の継室お江ではないと言われています。
さらに、家光の生母もお江でないという説もあります。
九州産業大学の福田千鶴教授は、「徳川秀忠 江が支えた二代目将軍」の中で、次のように書いています。筆者(福田氏)は、竹千代の生母も江以外の女性であったと推考する。
その最大の理由は、竹千代誕生の前年の同じ七月に、江が初を出産していることである。
いくら年子を生んだとしても、短くも一年半ぐらいあけないと平産するのは難しい。(中略) つまり、出産の一年後の同じ月に次の子を無事に出産することが難しいことは常識的に考えれば簡単にわかることだろう。・・・。「当代記」によれば竹千代の出産は「平産」であった。竹千代は元気に生まれてきたのである。・・・・。 理由はいたって単純な生理的なことであった。
なお、京都大学教授だった藤井譲治氏著の「人物叢書 徳川家光」には、
「「当代記」には、「7月17日未刻、武州右大将秀忠公若君誕生。十箇月満たずといえども平産」と伝えたように、月足らずでの誕生であった」と書かれています。
これを読むと、福田教授の前提としている「家光平産」という認識とは明らかに違っているように思います。
今後、家光の生母がお江かどうかの議論はどう展開するのか注目してみたいと思います。

