家光は、元和3年(1617)に西の丸へ移ります。
家光の元服は、元和6年(1620)に行われ、竹千代から家光に改めます。
「家光」の名乗りは崇伝の選んだものでした。
当初の名乗りは「家忠」でしたが、それは公家の花山院家の祖の名乗りで差支えがあると江戸にいた武家伝奏の意見が出されたため、再度崇伝が選んだのが「家光」でした。
家光の加冠は土井利勝が、理髪は酒井忠世が勤めたと「幕府祚胤伝」に書かれています。
なお、弟の国松も同時期に「忠長」と名乗ることになりました。
元和9年(1623)6月に、秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下を受け、正二位内大臣となります。家康、秀忠、家光と3代までの将軍宣下は伏見城で行われました。
この時、征夷大将軍の宣旨を家光に奉呈する役を高家の吉良義弥(よしみつ)が勤めています。
吉良義弥は、吉良上野介の祖父です。
また、元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れしました。(家光の妻妾については、別に書きます。)
先日書いたように秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権、領知宛行権等の政治的実権を掌握し続ける二元政治でした。
そのため、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議により一元化が計られました。
寛永3年(1626)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために2度目の上洛を行いますが、秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名を従えていたのに、家光の軍勢は、譜代、旗本中心の部隊で、数も圧倒的に少ないものでした。
家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠は太政大臣、家光は左大臣および左近衛大将となりました。
この上洛中に、お江危篤の連絡が江戸より届きます。この際に、秀忠・家光を一緒に上洛中であった忠長はすぐに江戸に向かうために京を出発しますが、家光の出発が遅れている間に、お江がなくなったとの連絡があったため、さらに出発を遅らせたと言います。
家光が、本当に将軍として幕政を動かすことができるようになるのは、秀忠の死後です。
その話は次回します。
さて、昨日、駒込に行く用事がありましたが、予定より早く用事が終了したので、白山神社に行ってきました。
白山神社は、平安時代の天暦2年(948)に加賀一宮の白山神社を今の本郷元町に勧請して創建されました。
元和2年には巣鴨原(現在の小石川植物園)に遷座し、さらに明暦元年(1655)に現在地に移転したものです。
白山神社では「文教あじさいまつり」が6月17日まで開催されていて、あじさいが見頃でした。
白山神社の裏手には、富士塚があります。
通常時期は閉鎖されていて、中に入ることができませんが、この時期だけは、富士塚に入ることができます。
富士塚の頂上には、小さな浅間神社が祀られています。
写真の中央に小さく写っているのが浅間神社です。