今日は、家光の世継誕生について書きます。
家光は若いころ女性に興味がありませんでした。若い頃に寵愛したのは小姓の堀田正盛や酒井重澄などでした。いわゆる男色です。
そうした中で、 寛永元年(1624)家光20歳の時に、関白鷹司信房の娘孝子と結婚します。孝子は22歳で家光より2歳年上でした。
夫婦仲はよくなく、まもなく、孝子は吹上御苑内に造られた御殿に移り以後中の丸殿と呼ばれます。
右写真は、小石川の伝通院にある孝子のお墓です。
家光は、20歳代になっても男色は直らなかったといいます。
心配した乳母の春日局は町中から美女を探してきて世話をしますが、女には見向きもしなかったようです。
しかし、伊勢の慶光院院主が挨拶に登城してきて、家光の様子が変わりました。
伊勢慶光院の院主が、寛永16年(1639)に家光に謁見した時に見初められ、慶光院を江戸城にとどまらせて、ついに還俗させてしまいます。
そして、春日局によって大奥入りし、還俗後は万と名を改めました。
お万の方によって家光の男色がなおり女に目覚めていったと言います。
お万の方は、家光に深く寵愛されましたが、子を儲けることはありませんでした。
これは、将軍家では、天皇や公家出身の娘が子供を産みその子が将軍になるという事態がおきないように大奥が管理していたと言われています。
次いで、ある時、春日局は浅草寺にお参りした帰り、古着屋の店先で遊んでいる娘に目にとまります。お万の方によく似ていた娘だったそうです。
この娘、名前はお蘭と言い、のちに家綱を生むことになります。
お蘭の父は旗本に仕官していましたが、不始末を起こし江戸を追われ下総猿島郡鹿麻村に住んでいる時に禁猟とされていた鶴を撃ったため死罪となってしまいました。
そこで、母は江戸へ出て古河藩主永井尚政の屋敷に仕えて女中頭となり、永井家家臣の七沢清宗と再婚し、七沢清宗が武士を捨てて古着商を営んでいました。そこでお蘭は古着商を手伝っている時に春日局の目にとまりました。
一説によるとお蘭が呉服の間だった頃、年1回、女中たちが無礼講で歌ったり踊ったりする機会があり、その際にお楽が他の奥女中たちに故郷の麦搗き歌を歌っていたのを家光が気に入りお蘭は家光の側室となったといいます。
お蘭は、家光の側室になるとお楽の方となり、寛永18年(1641)8月3日に竹千代(後に4代将軍となる家綱)を産みました。
家光37歳の時でした。37歳にしてようやく世継が誕生したことになります。
春日局や幕閣の喜びは非常に大きいものがありました。