慶長11年(1606)2歳の時に大病を患い、将軍になった後の寛永6年(1629)に疱瘡にかかりました。この時には、家光の夢の中で枕元に家康が立ち、その日から病気がよくなったと言います。また、この時、春日局は「薬断ち」を約束して、家光の病気平癒を神仏に願いました。
このため、春日局は死ぬまで薬を服用しなかったと言われています。寛永10年にも大病を患いました。この時は「うつ病」と言われています。
この時、御三家の尾張藩の徳川義直が「将軍に万一のことがあった場合、他家に政権を奪われてならない」と大軍を率いて名古屋を出発したところ、家光は激怒し義直を追い返したという逸話があるそうです。
さらに、寛永14年(1637)正月に「虫気」という病気に襲われ、それに端をはしった病気が容易に直らず翌年まで長引きました。その時の病名も「うつ病」と考えられています。
余談ですが、家光の大病の治療にあったのが岡本玄冶です。岡本玄冶の拝領した土地に建てた長屋が玄冶店(げんやだな)です。これが、「切られ与三」の別名で知られる歌舞伎の『与話情浄名横櫛』の「源氏店妾宅の場」のモデルです。「玄冶店」の碑が人形町交差点にあります。(右上写真)
家光は、寛永12年までに、将軍直轄制度をつくりあげました。
しかし、寛永14年からの1年あまりにわたる家光の病により寛永12年に作り上げられた家光による将軍直轄制は機能麻痺に陥ってしまいました。
そのため、なんらかの対応策が必要となりました。
それ以前、家光は小姓あがりの側近の引き上げを図っていました。
松平信綱は、寛永9年(1632年)に老中並になりました。
そして、 堀田正盛と阿部忠秋も寛永10年(1633年)に老中並に引き上げられました。
しかし、寛永11年正月に側近衆のトップにいた稲葉正勝がなくなってしまいました。
稲葉正勝は、酒井忠世。酒井忠勝、土井利勝ら旧年寄衆と松平信綱たち「六人衆」をつつなぐ役割を果たしていたため、家光にとって大きな打撃でした。
そこで、家光は子飼い家臣の松平信綱の地位の引き上げを図りました。
寛永14年に島原の乱がおこると、乱鎮圧のため松平信綱を島原に派遣します。
信綱は、無事一揆軍を鎮圧しました。このことにより信綱の評価は大いに上がりました。
こうした中で、家光は病気から復帰した寛永15年11月、土井利勝と酒井忠勝の老中を免じて大老とし、朔望と「御用」時の登城を命じました。
そして、松平信綱と阿部忠秋に加えて、病気で辞職した堀田正盛の代わりに阿部重次を老中に任命しました。
これにより、老中は、松平信綱、阿部忠秋、阿部重次の三人となりました。
そして、大番、留守居、寺社奉行、奏者番、町奉行、大目付、勘定奉行などは老中を通じて将軍に言上するように命じました。
こうすることにより、将軍→老中→諸職という階層別組織を作り上げられました。
寛永14年の病によって、それまでは家光直轄の体制で幕政を行おうとしていたことの欠陥を解消させるために老中を機構の中核にすえたのでした。
これにより、幕政運営が将軍側近の年寄の個人的な力量によるのではなく、老中→奉行という機構・制度として運営されていくことになりました。
老中・奉行を中心とする幕府機構は将軍への人格的従属から自立した機構となりました。
そして、これが家光以降の幕政の基本となりました。

