徳川家綱は、寛永18年(1641)8月3日、徳川家光の長男として江戸城本丸に生まれました。母は側室のお楽の方(宝樹院)で、竹千代の幼名を与えられ、世子とされました。乳母は矢島局です。
慶安4年(1651)4月20日、家光が48歳で死去したため、11歳で4代将軍を継ぐことになりました。
秀忠・家光ともに将軍に襲職した際には、将軍職を譲った家康・秀忠が大御所として若い将軍を後見していたのと異なり、家光のバックアップの下で家綱が権力を承継することができず、11歳の若さで単独で政権を運営するという事態となってしまいました。この幼い将軍を支えたのは、大老酒井忠勝、老中の松平信綱、阿部忠秋そして家光の異母弟つまり家綱にとっては叔父にあたる保科正之たちでした。この人たちはすべて家光政権をささえていた人物です。
前政権を支えていた堀田正盛と阿部重次は先日書いた通り殉死しています。
これを受けて殉死しない松平信綱にはなぜ殉死しないのかという非難の声があがりました。これに対して、信綱は、「先代の恩が深いからといって自分の名誉のためだけに殉死したら、誰が幼君をお守りするのだ」と反論したそうですが、その言葉通り家綱を支えました
また、保科正之は、家光が亡くなる直前に枕元に呼ばれ、家光から直々に「自分の亡きあと家綱のことは正之に託す」旨の願いが言い渡されました。
これが「託孤(たっこ)の遺命」と呼ばれるものです。以後、保科正之はこの「託孤の遺命」を守るべく大いに奮励努力します。
また、これが会津藩家訓につながっていきます。
また、家光の亡くなった翌日の4月21日に、大老の酒井忠勝は、諸大名を江戸城に集め、「家光公はなくなったが、家綱公が家督を継ぐので安心されたい。もしも天下を望むならば、今が好機である」と挑発する発言をしました。
すると保科正之と松平越前守光通が直ちに進み出て、「この時期に誰が天下を望みましょうや。もしそんなことを企てる者がいたら我々に成敗を申し付けてください」と答え、それを聞き諸大名一同平伏したという話が残されています。
将軍宣下は、慶安4年8月18日、江戸城において行われました。
家康から家光までの将軍宣下は伏見城で行われましたが、家綱は11歳で幼かったため江戸城で将軍宣下が行われ、これ以降の歴代の将軍宣下は勅使を下向させ江戸城で行われました。
右上の写真は、上野寛永寺にある家綱の霊廟の勅額門です。

