家綱が将軍宣下を受けたのは、慶安4年(1651)8月18日でした。
【松平定政の出家】
この将軍宣下の直前の7月9日に三河刈谷藩主松平定政が突然寛永寺で出家し能登入道不伯と名のりました。松平定政は、家康の異母弟松平定勝の六男つまり家康の甥にあたります。
定政は出家後、子供の定知とともに江戸の町を「松平能登入道にもの給え」と言いながら托鉢して歩き人々を驚かせました。松平定政は、旗本の困窮が激しいのに救済が行われないことを批判し、自分の知行2万石を5石ずつ分配すれば旗本4千人が救済できるといって禄の返上を申し出ました。
幕府はこの一件を松平定政の乱心として改易し、定政は兄で伊予松山藩15万石松平定行に預けられました。
伊予松山藩松平家は、寛永12年(1635)に四国初の譜代大名として伊勢国桑名藩より松平定行が入封しました。以後松平家は明治維新まで続きました。「坂の上の雲」の主人公秋山兄弟や正岡子規も松山藩松平家藩士の家の出身です。
右上写真は松山城です。
【慶安事件】
松平定政の一件があった2週間後の7月23日に有名な「慶安事件」が発生しました。
由比正雪らの牢人グループが幕府転覆の陰謀を企てているという密告が老中松平信綱と町奉行の石谷(いしがい)貞清にありました。
計画は、江戸で風の強い日に幕府の煙硝蔵を爆発させ、市中各所に放火し、江戸城を占拠し、由比正雪は駿府の町に放火し駿府城から武器を奪い久能山に立て籠もり、江戸の丸橋忠弥も久能山に合流するという計画でした。
7月23日に丸橋忠弥が江戸で捕縛されました。そして25日に駿府の宿屋に泊った由比正雪一行を駿府奉行の捕り方が包囲し、由比正雪は自刃しました。
関ヶ原の戦いから家光が亡くなるまでの約50年の間に多くの大名が取り潰されたため多くの牢人がでて、その数は40万とも50万とも言われています。
世の中が安定し戦いがなくなると牢人は再就職するのが非常に厳しくなります。地方で暮らしに困った牢人は江戸や大坂などの大都市に集まってきて、社会の不安定要素となっていました。
そうした牢人の不満が慶安事件の背景にありました。
【末期養子の禁止の緩和】
幕府は慶安事件の4か月後の慶安4年12月に末期養子の禁止を緩和しました。
末期養子というのは、死の直前に養子を定めることです。大名の嗣子はあらかじめ届けられていなければならず、死の直前に養子を定めることは禁止されていました。
大名は後継ぎがいない場合には改易となりました。末期養子が禁止されていたため跡継ぎはいなくて改易になるケースが多く、無嗣改易は大名の改易の4割を占めていたとも言われています。
末期養子の禁止を緩和で改易が少なくなることにより、牢人の発生を防ごうとしたのでした。
そのため、藩主が50歳以下で、養子が筋目正しい場合には末期養子を認めることにしました。
この末期養子が認められた一例を挙げます。忠臣蔵で有名な吉良家と上杉家の間の養子縁組がその例です。
寛文4年(1664)5月、米沢藩上杉家30万石の当主上杉綱勝が27歳の若さで病死しました。綱勝には嗣子がいないため改易されそうになりましたが、急遽高家吉良上野介義央の子三之助を末期養子として家督相続をお願いしました。
上杉綱勝の正室は保科正之の娘であったこともあり、30万石のうち半分の15万石に削減されたものの上杉家は存続することができました。

