いわゆる明暦の大火です。別名「振袖家事」とも呼ばれます。
明暦の大火は、正月18日から19日にかけて発生しました。
この火事の火元は3か所と考えられています。まず第一の火元は本郷丸山本妙寺で、18日の正午過ぎに発生しています。
第二の火元は小石川伝通院前の新鷹匠町の大番与力宿舎で19日の午前10時ごろに発生し、第三の火元が麹町5丁目の町家から19日の午後4時ごろ起きています。
この大火による被害は、大名屋敷160、旗本屋敷770、寺社350、町家400町、橋60で、市中の6割が燃え、死者は10万人を超えたと言われています。
江戸城も、天守を初め、本丸・二の丸・三の丸が燃え、かろうじて西の丸のみ火災から逃れました。
明暦の大火の死亡者は10万人を超えたと言われていますが、その中でも多数の死者が出たのが浅草橋での悲劇です。
浅草橋には、浅草御門がありました。この門の先は浅草寺に通じていて、江戸市中から北への避難路にあたります。そのため多くの人々が浅草御門に殺到しました。一方、囚人を収容していた小伝馬町の牢屋敷にも火が近づいたため、囚獄(牢奉行)の石出帯刀は独断で囚人の切放ちを実施しました。
しかし、この切放ちの連絡を受けていなかった浅草御門では、「囚人が脱走した」という流言が流れたため、御門を閉鎖しました。
そのため、逃げ場を失った避難者たちが火災に巻き込まれたり、川に飛び込んだりして死亡し、その数は2万3千人を達したと言われています。
右上写真は、浅草橋たもとにある浅草見付跡の石碑です。
ところで、明暦の大火が別名「振袖火事」といわれる由来については、以前このブログで書きましたが、再度掲載します。
4代将軍徳川家綱の時代の承応3年(1654)春3月、麻布百姓町質商遠州屋彦右衛門の一人娘梅野(16歳)が、母に連れられて、菩提寺の本妙寺に参詣したついでに、浅草観音にまわるつもりで、上野山下まで来たところ、上野山内に姿を消した寺小姓風の美少年に恋したのが発端です。
美少年は、紫縮緬(むらさきちりめん)の畝織(うねおり)へ荒磯と菊の模様を染めて、桔梗の紋をつけた振袖を着ていました。梅野は母親にねだって寺小姓が来ていた通りの振袖を縫ってもらいました。梅野は、枕に鬘(かつら)をつけて、それを振袖で包んで夫婦遊びをしていました。
両親は八方へ手分けをして、その美少年を探しますが見つかりませんでした。
そして、梅野は恋わずらいにより翌年の承応4年(1655)1月16日、17歳でなくなってしまいました。
遠州屋では、梅野の棺を振袖で蔽(おお)って、葬式をすませ、振袖は本妙寺に納めました。
本妙寺では葬儀が済むと、古着屋へ振袖を売り払いました。
《昔は、争議には亡くなった人が生前一番愛用していた衣類を棺に掛けて行われるのが慣例で、埋葬の後にはその衣類が古着屋に売られ、墓の穴掘り人側の浄めの酒代にされたそうです。》
その振袖が、翌年の梅野の祥月命日に、上野山下の紙商大松屋又蔵の娘きの(17歳)の葬式に、再びその振袖が本妙寺に納まり、また売り飛ばされました。
すると翌年の同月同日に、本郷元町の麹商喜右衛門娘いく(17歳)の葬式に三度本妙寺に戻ってきました。
さすが、住職もおじけをふるって、今度は古着屋の手へ渡すことを思いとどまり、娘三人の親が施主となって、明暦3年1月18日、本妙寺内で大施餓鬼を行い、振袖を火に投じて焼くことにしました。
振袖を火に投じると一陣の竜巻が、北の空から舞いさがり、火のついた振袖がさながら人間の立った姿で、80尺の本堂真上に吹き上げたため、雨のように降る火の粉によりたちまち本堂から出火しました。
以上が「振袖火事」の伝説です。
この振袖火事伝説のある本妙寺が第一に火元とされているいることから。明暦の大火が別名「振袖火事」と呼ばれるようになりました。
現在本妙寺は、本郷から染井に移転しています。左上写真は本妙寺の本堂です。

