家綱の正室は伏見宮貞清親王の姫顕子です。
明暦3年(1657)4月に江戸に入り、7月10日に西の丸で結婚式を挙げました。
この時は、明暦の大火で本丸・二の丸・三の丸が焼失していたため、西の丸しか残っていませんでした。家綱は17歳で、顕子は一つ上の18歳でした。
なお、婚礼は、明暦の大火の直後であったため、幕府は挙式の発表をせず諸大名の慶祝登城の控えられ、祝い品も差し止められるという寂しい婚礼でした。
また、最初は御台所と呼ばれず、万治2年(1659)に本丸に移った後に御台所と呼ばれるようになりました。
顕子は将軍家が宮家から初めて迎えた正室ですが、宮家から正室を迎えたのも将軍家の権威づけの側面もあったことから家綱との夫婦仲は必ずしも円満ではなかったようです。
そのため、寂しく延宝4年(1676)に37歳でなくなりました。
家綱の側室には、お振の方、お満流の方などがいます。
正室顕子に従って江戸に下向した奥女中に飛鳥井という上臈がいました。
お振の方は、寛文5年(1665)に江戸に下り、飛鳥井の部屋子として大奥に入りました。神祇官吉田兼起の娘と言われています。
大変美しかったためすぐに家綱の寵愛を受け寛文7年(1667)に懐妊したもののまもなく熱病のためなくなりました。19歳でした。
お満流(まる)の方は延宝5年(1677)に18歳で大奥に入りました。家綱は37歳でした。
お満流の方はまもなく寵愛をうけ、延宝6年には懐妊しました。しかし、妊娠7か月で流産してしまいました。寛文8年(1680)には再び懐妊しますが、懐妊中に家綱が病気となってしまいます。そのため、家綱の後継をどうするかという問題が発生しますが、後継者は綱吉と決定します。そして、お満流の方はまたしても流産してしまいました。お満流の方のお墓は新宿の天龍寺(右上写真)にあると書かれていますが、私自身は確認できていません。機会を見つけて訪ねてみたいと思います。
延宝8年(1680)2月3日に四十の賀を祝った家綱ですが、子供はまだ一人もいませんでした。
そして4月下旬までは元気でしたが、5月1日気分不快を訴え、5月6日には病状がさらに悪化しました。7日は一旦持ち直したものの、5月8日には危篤状態になり、午後6時ごろ家綱はなくなりました。
家綱には子供一人もいませんでした、そして5月6日には病状が悪化したため、急遽、弟の館林藩主徳川綱吉を世継ぎとしました。
家綱には、弟が二人ありましたが、すぐ下の弟である甲府藩主徳川綱重は2年前の延宝6年(1678)にすでに死んでいました。そのため、その弟の綱吉が世継となりました。
これで、家綱については一区切りとさせてもらいます。

