延宝8年(1680)5月将軍家綱は病状が悪化します。そして5月6日に、綱吉に呼び出しがかかり綱吉が江戸城に登城すると、家綱から直接世継ぎがいないので養子にするといわれました。そして西の丸の準備が整い次第西の丸に移ること、綱吉の嫡子徳松に館林家を相続させるので、領知・家臣はそのままであることも伝えられました。
綱吉が、子供のいなかった家綱の養子となったのです。
しかし、綱吉はすんなり後継者になれなかったといわれています。
家綱の危篤にあたって、幕府の実権を握っていた大老の酒井忠清が、鎌倉幕府の北条氏に倣って、自分が権力を引き続きふるうために、京都から有栖川宮幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、これは堀田正俊が強く反対したため実現しなかったという話もあります。
このことは徳川実紀にも書かれていて、いろいろな本にも書かれていることなので、私もそうだと思っていました。
しかし、当時の幕府の政治体制からみても、宮将軍の擁立は実現性が乏しく、酒井忠清が宮将軍擁立の主張したのかも疑わしいという説がかなり有力です。
私が読んだ綱吉に関する次の書物でもすべて疑問視されています。
「人物叢書 徳川綱吉」塚本学(吉川弘文館)
「日本史リーフレット 徳川綱吉」福田千鶴(山川出版社)
「綱吉と吉宗」深井雅海(吉川弘文館)
「日本の時代史15 元禄の社会と文化」高埜利彦(吉川弘文館)
綱吉の将軍家相続は、そもそも、中継ぎ的な相続が期待されていたという説もあります。
綱吉が後継に決まった際に、徳松が館林25万石を相続することが決まりました。
綱吉の将軍就任が固定的永続的なものであれば、徳松も自動的に将軍家世嗣となるはずですがそうなりませんでした。これは大奥に妊娠中の側室がいたためです。
そのため、武家相続法の慣例に従い、実弟による中継ぎ相続の形をとり、家綱の実子が仮に成長したのちは、その子に将軍職を譲ることが期待されていました。
しかし、実際に中継ぎ相続をした兄弟が嫡系の子に家督を譲らず、自分の子に相続させようとして騒動になるケースがしばしば見られました。将軍家でも同様な危険があり、綱吉が徳松に将軍職を譲ろうとして騒動になるかもしれなかった。そのため、綱吉が養子になるにあたり、家綱に男子が生まれたら必ず将軍職を譲るよう誓詞を書かされたともうわさされたそうです。
このように「中継ぎ」として期待されていた綱吉の将軍宣下は延宝8年(1680)8月23日に行われました。
余談ですが、この綱吉の将軍宣下の時に、吉良上野介は高家として宣旨の取次を担当しました。
右上の写真は、上野寛永寺にある綱吉の霊廟常憲院殿霊廟の勅額門です。