家綱時代の大老酒井忠清を廃し、堀田正俊を大老としました。
これは、堀田正俊が酒井忠清の宮将軍擁立に断固反対して綱吉擁立に大きな功績を果たしたからとよく書かれています。
しかし、堀田正俊が大老となったのは、特に綱吉の将軍就任に大きな役割を果たしたからではなく酒井忠清政権で、大きな責任を負っていなかったためというのが塚本学氏の意見です。
綱吉は堀田正俊とともに幕政運営に自ら臨みます。
綱吉が将軍となった翌年に年号が「天和(てんな)」に変わります。
そして「天和」は3年後に「元禄」と変わり、わずか3年しかありませんでした。
この短い間に、綱吉の新しい政治が開始されており「天和の治」と称されています。
この天和の治の特徴の一つは、厳格な賞罰にあったと言われています。
その代表的なものが、「越後騒動」の裁決です。
越後高田藩主は、越前福井藩67万石の藩主で乱行のため改易された松平忠直の子松平光長でした。
光長は家康の曾孫にあたり、更に母は2代将軍秀忠の娘勝姫であり、御三家に准じる越後中将家として重んじられました。
しかし、延宝7年ごろより、代々の家老職であり、光長の妹婿であった小栗美作正矩と、光長の異母弟永見大蔵長良との争いが激しくなり、幕府の裁断を求めました。
延宝7年幕府評定所で裁定があり、反小栗派の荻田主目ら5人が大名家へのお預けになり一応の決着をみました。
しかし、この裁断には酒井忠清の関与が大きく、反小栗派は小栗派が酒井忠清に取り入った結果だと主張できました。
そのため、騒動が沈静化せず、幕府に騒動の再審を強く要請しました。
そのため、延宝8年12月より再審が開始されました。
当初は稲葉正則が担当して審議が行わられました。
それから半年後の天和元年6月20日に綱吉は自ら裁断すると告げ、翌日大広間に御三家・甲府家・譜代大名列席のなかで、高田家両派の家臣6人を堀田に尋問させた後、綱吉自らが大声で「これにて決案す。はやまかりたて」と告げました。
この時、座は震えたと徳川実紀に書かれています。
小栗父子は切腹、永見大蔵らは八丈島に流罪となり、両派に厳罰が課せられ、藩主光長は所領没収となりました。
両派の家臣が厳罰が課せられたうえに、有力な一門大名が特別の罪もなく家臣の統率が不十分だったというだけで所領を没収されたことは、新将軍の権威と厳しさを天下に示すに十分でした、
また、光長の従兄妹にあたる姫路藩15万石藩主松平直矩と出雲広瀬藩3万石の松平近栄は、高田家の内紛を適切に処置できなかったとして閉門を命じられ、翌年許された時に所領は半減されました。
綱 吉は、一門大名に厳格に対応するとともに諸大名や幕府役人に対して、さらに一般庶民に対しても厳しくたりました。新将軍は江戸の町を戦慄(塚本学「人物叢書徳川綱吉」)させたのです。

