堀田 正俊は、3代将軍徳川家光政権下の老中堀田正盛の3男です。
そして、寛永12年(1635)春日局の養子となりました。春日局はもともと義理の曾祖母に当たりましたが、家光の命により養子となりました。
寛永18年(1641)には、徳川家綱の小姓に任じられました。寛永20年(1643年)、家光の上意で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約し、春日局の遺領3000石を与えられました。
慶安4年、父の正盛が殉死し正盛の領知から1万石を分与され、官位は従五位下備中守に任じられました。
寛文10年(1670)に若年寄となり、延宝7年に老中となりました。
天和元年(1681)正月にはいままで酒井忠清が住んでいた大手門前の屋敷を拝領し、2月には5万石加増され古河藩主となり、筑前守に改めました。そして、12月11日、忠清に代わって大老に任ぜられました。
翌天和2年には4万石加増され、13万石となりました。
正俊は、家綱時代末期の老中であるにもかかわらず新将軍から抜擢され(中略)優遇された。それに対して、家綱時代の大老酒井忠清は延宝8年12月に免職となった。この両者の待遇面における較差が「宮将軍擁立説」を生んだともいえる。中略、しかし、酒井が宮将軍の擁立を唱えたかどうかも疑わしい。」と深田雅海氏は「綱吉と吉宗」の中で書いていて「酒井忠清の宮将軍擁立説を疑問視しています。
堀田正俊は綱吉から農政と幕領支配の専管を命ぜられ、堀田正俊名で、代官服務規程7ヶ条を定めました。
これにより、幕府財政の基盤となる幕府領の管理する代官をしっかり働かせ年貢徴収を強化しようとしました。
こうした服務規程をつくり統制を強化したことにより、綱吉政権29年間で34人の代官が処分されています。
処分者は何代にもわたり代官を勤めてきた代官と年貢滞納の代官が多くなっているようです。
また、天和2年6月14日には勘定吟味役を新設し、佐野正周、国領重次を任命し、勘定頭の補佐と、勘定諸役人の監督にあたらせました。
天和の治の中心人物であった堀田正俊ですが、突然、貞享元年(1684年)8月28日、江戸城本丸御殿で従叔父で若年寄の美濃青野藩主稲葉正休に江戸城内で刺殺されてしまいました。享年51歳でした。
稲葉正休もその場で殺害されたため、堀田殺害の理由ははっきりしません。
幕府の記録によれば稲葉の発狂のためとされています。しかし、理由がはっきりしなかったため、いろいろな噂や憶測が生まれました。
大坂の淀川の治水事業に関する意見対立や、堀田が権勢に驕る行動を正休が諌めて受け入れられなかっ たためという説もあり、ひどいのには謀反を企てていたという話もあったようです。また、綱吉を諌めた堀田を綱吉が疎んじて抹殺させたという噂もあったようです。

