そこで、今日は同期会のお話と江戸検今年のお題「徳川将軍15代」関連して、会津藩祖保科正之の育ての親である見性院(けんしょういん)のお墓のある清泰寺についての紹介です。
【同期会】
今回の同期会には12人が出席しましたが、日頃ビジネス等でお付き合いがあるので、同期会としては久しぶりの同期会ですが見慣れたメンバーの面々でした。
みんな別の会社勤務となっていて、業種を考えてみると不動産業、リサイクル業、病院、精密機器、繊維業、警備業、金融機関、建設業、学校法人など様々な業種で活躍していることに気が付き、改めて驚きました。
団塊世代の同窓会・同期会では、一般的に健康・年金・子供の話題が多いと聞きますが、我々の仲間はまだみんな現役のバリバリですので、そうした話題が少なく、ビジネスの情報交換もされて活気あふれる同期会になりました。
商売のネタをつかんだ人もいるようですよ。
とはいっても、そろそろ第2の人生ということで趣味や遊びの話題も出ました。
遊びといえばゴルフということになります。
真夏は避けて少し涼しくなる9月中旬にゴルフがセットされて、ゴルフの話題も盛り上がりました。
しかし、ゴルフをしなくなった人もいるので、また年末に飲み会をやろうということを決めて散会しました。
宴会中にも写真はとったのですが、散会の前に、改めて参加者全員で記念撮影です。
はち切れそうな笑顔がいいですね。
本日不参加の同期のみんな、次回は参加してね。
それにしても、まだまだ若い同期の仲間から元気をもらった一夜でした。
【清泰寺】
さいたま市での同期会ですので、次いでさいたま市の史跡を紹介します。
先日、4代将軍家綱の補佐役で会津藩藩祖の保科正之について書きましたが、保科正之を育てた見性院(けんしょういん)のお墓のあるさいたま市緑区の清泰寺を紹介します。
JR武蔵野線東浦和駅から徒歩7分ほどのところにあります。
清泰寺は、平安時代の高僧慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられる天台宗の寺です。
ご本尊は、木造十一面観音立像で、12年に一度の午年にご開帳されます。ご本尊の十一面観音立像は、室町時代の作です。
見性院は、武田信玄の次女で、母は信玄正室三条夫人です。
そして、武田家の親族衆穴山信君(梅雪)の正室です。
天正10年(1582)の織田信長の甲斐侵攻の際、穴山信君は徳川方と通じ、徳川勢の先導者として甲斐侵攻に協力しました。
そして、甲斐侵攻完了後は、織田信長に招待されて徳川家康とともに上京しました。この時に、本能寺の変に遭遇しました。
徳川家康は、苦労して伊賀を越え無事三河に帰り着きましたが、家康とは別行動をとった穴山信君は山城国で殺害されてしまいました。
未亡人となった見性院は、家康に厚く保護され、江戸城北の丸に屋敷を拝領するとともに大牧村(現緑区東浦和)に領地を与えられました。
そして、2代将軍秀忠に男子幸松が生まれると、その養育を頼まれ、7才まで育てました。
幸松が信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられたのも、見性院の働きかけによるものです。、 元和8年(1622)に没し、領地内の清泰寺に葬られました。
養育の恩を忘れない保科正之は清泰寺に霊廟を建立しました。
しかし、霊廟は後に倒壊し、その門扉のみが現在に至っています。
見性院のお墓は非公開ですので、正面からは門扉だけ見ることができ、見性院のお墓を見ることができません。
そこで、門扉の斜め横から撮った写真が右の写真です。
墓石が新しく見えますが、現在の墓石は、安政5年(1858)に会津藩により建てられたものだそうです。
赤字が清泰寺です。