堀田正俊の暗殺後は、将軍と老中の距離が遠くなりました。
当初、老中たちは将軍が常にいる御座所近くに集まって物事を相談し決裁しました。
しかし、事件後は、老中と若年寄の御用部屋が将軍の御座所から離されました。
これは、いうまでもありません。大老でさえ、本丸内で暗殺されてしますという事件を受けて、万が一のことを考えて、それを避けるためにしたものと思われます。
そして、その結果として、将軍と老中との間を取り次ぐ役割の人物が必要となりました。
その役割を果たしたのが「側用人」です。
側用人は、柳沢吉保のイメージから、かなり権限をもっていて、従来老中が取り仕切っていた「表」についても関与したように思っていました。
しかし、福田千鶴教授の「徳川綱吉」を読むとそうでもないと書かれています。
福田教授によれば、側用人の当初の職務は、中奥に所属する人の人事などの中奥の支配、奉書の発給、山王権現への代参などが主な業務で、表における老中を中心とした通常の政治向きには深くかかわらなかったようです。そして、綱吉の側用人政治は、家光以来の老中合議制を大きく逸脱するものではなかったそうです。
側用人として最初に重用されたのは、牧野成貞です。
牧野成貞は、万治3年(1660)に綱吉の側衆となり、神田館に出仕し、 寛文10年(1670)12月に家老に抜擢されました。
綱吉が、将軍世継ぎになると、牧野成貞もこれに従い側用人となりました。
側用人としては、牧野成貞と柳沢吉保が有名ですが、側用人は2人だけではありませんでした。
初期の側用人としては牧野成貞以外にも喜多見重政、太田資直などがいますが、多くは短期間で免職されています。
この時期の側用人は、綱吉との個人的な関係で任命され、綱吉が気に入らないとすぐに免職になったようです。
そうした中で、牧野成貞が病気のため元禄8年(1659)に引退しました。
その跡を継いで重用されたのは、柳沢吉保でした。
柳沢氏は、もともとは武田家の遺臣です。
武田氏の滅亡後武田家遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれる中で、柳沢氏も徳川家に仕えました。
柳沢吉保は、万治元年(1658)柳沢安忠の長男として生まれました。父の柳沢安忠は神田館時代に綱吉に仕えて勘定頭も務めました。
延宝3年(1675)には、父がなくなり吉保が家督を相続しました。
延宝8年(1680)綱吉が将軍になるに伴い、吉保も幕臣となり小納戸役となりました。
そして、元禄元年(1688)に側用人となり、綱吉政権の後半期には権勢をふるいました。
柳沢吉保についてはまた改めて書く機会があると思います、その時にもう少し詳しく書きます。

