この暑い中ですが、土曜日は、毎日文化センターの「気ままに江戸散歩『忠臣蔵』ゆかりの地を行く」があり、受講生の皆さんと麹町と紀尾井町を歩いてきました。
東京地区35度という暑い中での散歩でしたので、ともかく体調を悪くしないために、水分補給・塩分補給し、適宜休憩をいれて歩いてきました。お蔭様で全員無事を何事もなく終了しました。
右上写真は、案内スタートの半蔵門です。門の名前は徳川十六神将の一人服部半蔵に由来していること事は有名です。
半蔵門 ⇒ 定火消屋敷跡 ⇒ 豊岡藩京極家屋敷跡 ⇒ 平河天満宮 ⇒ 山田浅右衛門屋敷跡 ⇒ 高野長英学塾跡 ⇒ 赤穂浪士隠れ家跡 ⇒ 切絵図出版元尾張屋跡 ⇒ 岩城升屋跡 ⇒ 心法寺 ⇒ 藤田嗣治旧居跡 ⇒ 島崎藤村旧居跡 ⇒
犬山藩成瀬家屋敷跡 ⇒ 尾張藩中屋敷跡 ⇒ 喰違門 ⇒ 尾張藩中屋敷跡 ⇒ 清水谷公園 ⇒ 紀州藩上屋敷跡 ⇒ 赤坂御門 ⇒ 東京メトロ「赤坂見附」駅
【赤穂浪士の隠れ家】
今回のメインは赤穂浪士たちの多くが隠れ潜んでいた凡その場所を探すことでした。
赤穂浪士たちは、吉良邸に討ち入りするまで江戸市中の各所に潜んでいました。
大石内蔵助は、日本橋の公事宿に泊まっていました。
そして、麹町にも赤穂浪士が隠れ住んでいました。
麹町には、17人の浪士が、4か所に分かれて住んでいました。今は、もうすっかり景色は変わっていますので、明確にここに住んでいたということがわかるわけだはないので、元禄時代を想像するしかありません。
しかし、こんな場所で赤穂浪士が隠れ住んでいたのかと感慨にふけりました。
下記の新麹町4丁目~6丁目は、平河天満宮の近くにあった町屋のようです。左上真は、平河天満宮です。
新麹町4丁目の和泉屋五郎兵衛店に、中村勘介、間瀬久太夫、間瀬孫九郎、岡島八十右衛門、岡野金右衛門、小野寺幸右衛門、の6人が住んでいました。
その裏の新麹町4丁目裏の七郎右衛門店には、間新六、間十次郎、間喜兵衛、千馬三郎兵衛(せんばさぶろうべえ)そして最後に脱盟してしまった中田理平次の5人が住んでいました。
新麹町5丁目の秋田屋権右衛門店には富森助右衛門が住んでいました。
新麹町6丁目の吉右衛門店に吉田忠左衛門、吉田沢右衛門、原惣右衛門、不破数右衛門、寺坂吉右衛門がいました。
なお、本によっては「新麹町」でなく「麹町」と書いてあるものもあります。「新麹町」は千代田区発行の「御藩士千代田」によりました。
【心法寺】
心法寺は、千代田区内で江戸時代から続く墓地のある唯一のお寺です。
心法寺は、もともとは推古天皇の時代に、三河国で「秦宝寺」として創建されたお寺と言い伝えられているそうですが
、江戸麹町に創建されたのは、慶長2年(1597)です。これには次のような逸話があると説明板に書かれていました。
三河国の秦宝寺から天正18年(1590)に徳川家康といっしょに江戸に来た然翁聖山和尚が創始者です。
三河に帰ろうとした和尚を家康が引きとめ、代わりに市ヶ谷に広い寺地を与えましたが、和尚はこれを断り、慶長2年(1597)に今の場所にお堂をたてました 「衣食が十分だと僧侶が怠け者になり、仏に仕えることがいやになる」ということと「江戸に移住した町人たちのために大衆的なお寺にしたい」というのがその理由でした。
【藤田嗣治旧居跡】
心法寺の西側、江戸時代は、犬山藩成瀬家のお屋敷でした。
その一画に、「藤田嗣治」の旧居跡があります 。藤田嗣治は、フランスにおいて最も有名な日本人画家と言われています。
「乳白色の肌」を持つ裸婦像で広く知られています。
人生の多くをフランスで過ごし、昭和30年にフランス国籍を取得した藤田嗣治ですが、昭和12年から昭和16年まで、番町に住んでいました。
その旧居を示す碑が、6番町町会により設置されていました。
建物の玄関に組み込まれていました。左写真の下部にあるのが碑です。
【大久保公哀悼碑】
暑い中での散歩でしたが、長い休憩をとりながら歩いたので最後赤坂見附に着いたのは6時ごろでしたが、少し気温が下がったなかでの紀尾井町を散歩することになりました。これも意外と好評でした。
紀尾井坂の近くの清水谷公園に、「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建立されています。
高さが6.27mもある立派なものです。明治11年5月14日、大久保利通が、紀尾井坂で暗殺されました。
大久保利通は馬車で裏霞が関の私邸から赤坂仮御所へ向かう途中、紀尾井坂で、待ち伏せていた石川県士族島田一郎ら6名に暗殺されました。
これは、「紀尾井坂の変」と呼ばれていますが、実際の殺害現場は清水谷公園前のようです。

