【武家諸法度】
天和3年(1683)7月、「武家諸法度」が発布されました。
この改定では、第1条が改定されました。
従来の第一条は、「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」でした。
それは、「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」と改めました。
武士に最も要求されたのは、「弓馬の道」つまり弓や馬に代表される武道であったものから、「忠孝」や「礼儀」に変わりました。
このように「弓馬の道」から「忠孝」「礼儀」が重要視されるようになったのは時代の変化によるものでした。
綱吉の時代になると軍事的緊張はかなり緩やかになります。
家康・秀忠までは戦いは日常的なものでした。家光の代では、戦いは少なくなりましたが、島原の乱など戦いは起こりました。
こうした状況の中で、 戦争のない場合でも、上洛の際の大勢の軍勢を供奉させたのは、一種の軍事演習でした。こうしたことで緊張感を高めました。
同様にたびたび行われた日光社参は、行程そのものが軍事演習としての意味をもっていました。
しかし、綱吉の時代になると、世の中は、上下とも平和を疑うことはなくなり、戦争を前提とした将軍権力の軍役発動と軍事指揮権を通じた権力誇示の必要は小さくなりました。
秀忠、家光、家綱までおこなわれてきた日光社参を綱吉は行いませんでした。これは、財政上の理由だけでなく、綱吉自身が日光社参という軍事演習を必要としなかったからだと言われています。
【服忌令】
同じ年天和3年に綱吉の子供の徳松がなくなりました。数え年5歳でした。
徳松の死をきっかけに、服忌令が貞享元年(1684)に定められました。
服忌とは、喪に服する服喪と穢れを忌む忌引きのことで、近親者の死に際して穢れが発生したとして、近親者との関係に応じて喪に服する日数や穢れがなくなるまでの自宅謹慎している忌引の日数を定めたものです。
一例をあげれば、父母が死んだ場合には、忌が50日、服が13か月と定められていて、50日間は出仕できず、喪中期間は祭り事や神事は行えませんでした。
死を忌み嫌い、地の穢れを排する服忌の制は、朝廷や神道における習俗であり、戦闘集団である武士には血の穢れや死を忌み嫌う思想はありませんでした。
しかし、服忌令の制定により、戦国時代以来、人を殺すことが価値であり、主人の死後追腹を切ることが美徳とされた武士の論理は、死の穢れとともに排され、武家の儀礼のなかに朝廷から伝わった服忌の概念が制度化されました。
これには、綱吉の正室や側室を通じた公家文化の影響もありますが、将軍家やその先祖の権威を高めるために法制化したという説もあります。
そして、武家社会に導入された服忌令の考えは広く社会にも浸透していきました。
現在も行われている喪中や忌引の習慣はこの綱吉の服忌令から始まって一般庶民に広がったものと言えます。

