綱吉と言えば「生類憐みの令」と言われるごとく綱吉の政策の代名詞の感があります。
しかし、「生類憐みの令」という法令が存在するわけではありません。
動物愛護のために出された複数のお触れを総称して「生類憐みの令」といっています。
この「生類憐みの令」が最初にだされたのかについては、諸説あるようです。しかし、 貞享2年(1685)7月に出された「将軍の御成先犬猫をつなぐ必要なし」というお触れが最初とする説が多いようです。
このお触れを最初として綱吉が死去する宝永6年(1709)までに出された「生類憐みの令」関係の町触は116件あるそうです。
愛護の対象は犬馬牛に限らず、その他の鳥獣にも及びました。
そして、生類の対象は、捨て子、捨て病人、行き倒れ人などの弱い人間まで広げられ、捨て子の禁止とその保護も触れだされました。
生類憐みの令が出された理由について、従来、徳川綱吉に跡継ぎがないため、子供がほしかったら、殺生を慎み、生類とくに綱吉が戌年生まれだから特に犬を大切にするようと桂昌院が帰依していた僧隆光から進言されて発令されたとされてきました。
「しかし、近年の研究では否定的な見解が主流である。隆光進言説の典拠となる史料が綱吉のゴシップ記事を多く載せる「三王外記」であること、「隆光僧正日記」にそのような内容が書かれていないこと、隆光が大僧正となる前から動物愛護令が出されていること、綱吉自身が愛犬家であるとは思えないことなどがその理由である」(福田千鶴著「徳川綱吉」)ようです。また、「生類憐みの令が最初に発令されたのは貞享2年(1685)。隆光が江戸の知足院別院に入ったのは翌貞享3年であり、それまでは大和国の長谷寺にいたので、隆光が進言したという説はなりたたない可能性が高い」(深井雅海「綱吉と吉宗」)そうです。
また、生類憐みの令は「本来幕府支配地のなかでもとくに江戸市中を対象としたもので、将軍家がそのお膝元に下した」(塚本学著「徳川綱吉」)ものです。
「生類憐みの令の思想の背景には、殺生を禁じ生あるものを放つ仏教の放生の思想に基づくもので、権力による慈愛の政治という一面をもつことは否定できない。しかし、武士・農民・町人など多くの人にとって、行き過ぎた動物愛護の行き過ぎた命令は迷惑なもの」(高埜利彦著「元禄・享保の時代」)でした。
特に、1695年(元禄8)には江戸郊外の中野に16万坪の土地を囲って野犬を収容し、その数は最高時8万2000党が収容されたと言われ、1年の費用は9万8000両もかかったと言われています。そして、これらの費用は江戸や関東の村々の負担となりました。
このように、人々に迷惑なものだった 「生類憐みの令」は、綱吉がなくなると、宝永6年(1709)ただちに廃止されました
右上写真は、綱吉が桂昌院の願いにより創建した護国寺の本堂です。

