綱吉は、熱心に仏教に帰依し、儒教を学んだため、それらが政治に反映されました。
仏教では、護国寺と護持院を新たに建立しました。
護国寺は、綱吉の母桂昌院が帰依していた碓氷八幡宮別当大聖護国寺の住持亮賢に高田村にあった薬園の土地を与えて創建した寺院です。
亮賢は、桂昌院が幼少の頃、桂昌院の顔をみて玉の輿に乗ると予言をしたと言われています。その予言が真実となったため、綱吉を身ごもった桂昌院は亮賢を江戸によび安産の祈祷を頼むと今度は「男子が生まれ、その子はやがて将軍になる」と告げ、それが真実となったので桂昌院に一層信頼されるようになったという話があります。
護持院は、もともとは知足院といい、徳川家康が将軍の安全を祈祷する護持僧として召し出した大和国の西蔵院光誉に与えた筑波山神社の別当寺でした。
やがて元和2年(1616)江戸白銀町に知足院が設けられ、光誉は江戸に常府して護持僧として勤めを果たすようになり、筑波山には院代が置かれました。
そして、江戸の知足院は1684に湯島に移りました。
ここに貞享3年(1686)に隆光が招かれました。さらに貞享5年(1688)に神田橋外の武家屋敷地に知足院の建立が綱吉によって命じられました。
貞享5年(1688)11月に完成した知足院は、隆光を開山として、護摩堂、祖師堂、観音堂などのある豪華壮大な寺院だったと言われています。
隆光は元禄5年(1692)に大僧正に昇進し、元禄9年(1696)には知足院は「元禄山護持院」の号を賜り、以後「護持院」と称するようになりました。
その後、享保2年に護持院はすべての堂塔が焼失してしまい、護国寺と合併しました。
そして本坊を護持院、観音堂を護国寺と呼ぶようになりました。
上の写真は、護国寺の仁王門(元禄期建立)と観音堂(元禄10年建立)です。
また、現在も残っている奈良東大寺大仏殿を再建したのも綱吉です。
大仏殿の再建する漢人活動をしていたのは東大寺の公慶でした。元禄6年(1693)に知足院隆光を介して綱吉や桂昌院や柳沢吉保と面会し、幕府の全面的支持を得ました。
奈良時代の大仏殿の規模は11間四方でしたが、金がかかりすぎるため、大仏殿の大きさを7間四方に縮小して、 宝永6年(1709)についに落慶しました。この時に建立した大仏殿、中門、回廊、東西楽門は現在も残っています。
護国寺、護持院、大仏殿の建立などのほか寺社の造営。修復を積極的に行い、その数は106寺社に上るそうで、膨大な費用をつかい幕府財政窮乏の原因となりました。
儒学では、上野忍が岡にあった林家の私的家塾と孔子廟を移転させ湯島に聖堂を建立しました。
上野忍岡の鳳岡の屋敷内の孔子廟はもともと尾張藩徳川義直の寄進によるものですが、狭いうえに寺院に近いのがよくないとして移転させたのでした。
元禄3年(1690)11月には大成殿の文字を自書して掲額させました。元禄4年(1691)2月7日には、聖像を湯島に移す儀式が行われました。11日には綱吉自らが湯島聖堂大成殿にお参りしています。そして1000石を寄進しました。以降聖堂への御成を毎年行っています。
綱吉は、聖堂に御成になるだけでなく、自ら儒教の講釈も行いました。
それだけでなく、大名の屋敷を訪問して講釈をすることもありました。
元禄4年には、林家の当主春常に束髪を命じを初代の大学頭に任じて信篤と名のらせました。
従来は、儒家は僧侶の類と考えられており髪をそりわずかに頭の後ろに髪を残して僧と区別していました。 将軍家が林家を僧形から脱しさせ世俗の役人に位置づけたことは重大なできごとでした。
以後、林家は代々大学頭を世襲しました。そして移転した家塾は昌平黌となり 1797には正規の昌平坂学問所となりました。
右上の写真は現在の湯島聖堂大成殿です。綱吉が創建した大成殿は戦災で焼失し、現在の大成殿は戦後再建されたものです。