昨日は、二条城、長楽寺、霊山護国神社などを拝観してきました。
新しい発見の連続で楽しい京都旅行でした。
いままで、「徳川将軍15代」関連の記事を綱吉政権まで書いてきましたが、折角京都に行ってきましたので、今日からは、14代家茂まで飛んで、家茂について京都幕末史跡と関連付けて書いていきたいと思います。
今日はまず二条城について書いていきます。
二条城は、徳川幕府における京都の拠点でした。
現在の二条城は、徳川家康が慶長8年(1603)に建設したものです。
家康による創建時は現在の二の丸部分だけで、現在の本丸部分はありませんでした。
二条城は慶長16年には家康と豊臣秀頼との会見場所となりました。また、大阪の冬の陣・夏の陣ともに家康は二条城から出陣しています。
元和6年(1620)には、秀忠の五女和子が、後水尾天皇の妃になるため二条城から御所に入りました。
寛永3年(1626)9月6日には、後水尾天皇の二条城行幸があり5日間滞在しました。
この行幸に備えて、寛永2年から3年にかけて増築工事が行われ、本丸・二の丸・天守完成しました。
寛永11年(1634) 家光が30万人と称する大軍を率いて入城しました。
それ以後は、将軍の上洛は、幕末の家茂までありませんでした。
この間、二条城は、大番組が2組ずつ1年交代で在番しました。大番組は、各組、番頭1人、組頭4人、与力10騎、同心20人で構成されていました。
そして、文久3年(1863)の家茂の上洛以降、また二条城は歴史の表舞台に登場します。
それでは、二条城の主な建築物のご案内をします。
現在、二条城に入るには東大手門(右写真)から入ります。
この東大手門は、二条城の正門です。重厚な櫓門ですが、後水尾天皇行幸の時には高麗門だったそうです。重要文化財です。
なお、二条城には、この他、北大手門、南門、西門と東西南北に一つずつ門がありますが、現在、入城できるのは東大手門だけです。
二条城前駅から向かうと目の前に見えるのが東南隅櫓(左の写真)です。
東南隅櫓は2層で、一層には石落しが備えられています。
また、西南には西南隅櫓があります。現在、二条城にある櫓は2つだけですが、4つの隅櫓をはじめとして8つの櫓があったそうです。
絢爛豪華な建築と障壁画で有名な二の丸御殿は国宝です。
二の丸御殿は、慶長年間に建てられ、寛永年間に大幅に増改築されたと考えらえています。
唐門(現在は修復工事中でした)をくぐると正面に二の丸御殿の玄関にあたる「車寄」(くるまよせ)が見えます。
二の丸御殿は手前から順に「遠侍」(とおざむらい)、「式台」、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」、「白書院」と呼ばれる6つの建物が雁行につらなっています。
大きな屋根の右手前にみえる屋根の部分が車寄です。大きな屋根は「遠侍」の屋根です。
二ノ丸の西側が本丸となります。
そこには本丸御殿があります。
江戸時代の本丸御殿は天明8年(1788)に焼失しその後再建されませんでした。
現在の本丸の御殿は御所の北にあった旧桂宮邸を明治26年から明治27年にかけて移築したもので、重要文化財に指定されています。
本丸の西南隅には、天守台が残されています。
慶長年間には5層の天守がそびえていましたが、寛延3年(1750)に落雷により焼失してしまいました。
現在は、高さ15メートルの天守台のみ残されています。
天守台の下の堀が内堀となります。
これから14代家茂について書いていきますが、家茂は三度上洛していますので、二条城はしばしば出てくることになると思います。
なお、二の丸御殿には豪華な障壁画がありますが、撮影禁止ですので、ブログで紹介できないのが残念です。
現在、江戸東京博物館で「二条城展」が開かれています。こちらにも行ってみたいと思っています。