京都御所は、平安京が造られた当初は、現在の京都御所よりかなり西方にあり、現在のJR西日本二条駅の辺りに朱雀門があったといいます。
現在の京都御所は元は里内裏の一つで、土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)と言い、元弘 元年(1331)、北朝の光厳天皇が最初に使用したものです。
なお、里内裏とは、内裏の外(里)に設けられた仮の内裏を言います。
御所は、織田信長が大修理し、豊臣秀吉も造営していますが、徳川家康は、慶長11年(1606)に修復造営しました。
しかし、その後、寛永18年(1641)、承応2年(1653)、万治4年(1661)、寛文13年(1673)、宝永5年(1708)、天明8年(1788)と短期間に何回も火災にあい焼失しています。
天明8年の火災にあった御所の再建の総奉行になったのが、時の老中松平定信でした。
松平定信は、20万両以上の費用をかけて平安京内裏の古式に再現された御所を再建しました。
その新造御所も嘉永7年(1854)に焼失してしまい、翌年安政2年(1855)に老中阿部正弘が奉行となり、寛政2年の造営を踏襲して再建されました。これが現在の京都御所です。
幕末になると、御所はまさに歴史の表舞台に登場し、歴史を動かす舞台となりました。
そして、蛤御門の変のように戦場にもなりました。
これから、御所が何回も登場することになると思います。
今回は、御所の参観はしませんで、御所周辺を歩いてきました。
御所の周りには築地塀(ついじべい)がめぐらされ、6つの門が設けられています。いわゆる「御所六門」です。
その6つの門をすべて写真に撮ってきましたので、紹介します。
【建礼門(けんれいもん)】
御所の南面にある門で、御所の正門になります。
切妻造、檜皮葺(ひわだぶき)、柱間1間の四脚門です、
建礼門という名前は中国にはないそうですが、平安京の内裏の造営時からある名前だそうです。
建礼門は御所の正門であるため、元は天皇の通行のためだけに開門されましたが、現在は、天皇と同行する皇后、外国の国王や大統領の通行の際にも開門されます。
建礼門を入り、承明門を抜けると正面が紫宸殿になります。
【朔平門(さくへいもん)】
御所の北門が朔平門です。
切妻造り、檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門です。
元々は、御所の後宮の正門として使用されました。
門の傍らに衛門府があったため、「北陣」とも呼ばれました。
【宜秋門(ぎしゅうもん)】
御所の西面の一番の南にある門です。
切妻屋根、檜皮葺の四脚門です。
親王や宮家、摂家、門跡、公卿らが参内する時に用いられたため「公家門」とも呼ばれました。
摂政・関白、大臣などで、公家の中で特に「牛車の宣旨」を許された公卿に限り牛車に乗ったままで出入りすることができました。
また、公家たちはこの門で浅沓(あさくつ)という木沓に履き替えて、午前10時に出勤し午後3時に退出しました。
現在は、年2回の春と秋に行われる一般公開には、参観コースの入り口として開門されます。
【清所門(せいしょもん)】
西面の真ん中にある門で、切妻造り、瓦葺の門で、棟門という様式だそうです。
「きよどころもん」と呼ばれることもあるそうです。
戦前までは、門の内側に「御清所(おきよどころ)」という建物があったため、その名がつきました。「「御清所(おきよどころ)」はわかりやすく言うと「台所」です。
御所の勝手口、通用門として使用されました。
【皇后門(こうごうもん)】
西面の最も北にある門で、切妻造り、瓦葺の門です。
この門は、後宮の通用門として使用され、後宮に皇后がいらっしゃる場合には「皇后門」、女御の場合には「女御門」といったそうです。
【建春門(けんしゅんもん)】
御所の東面の南よりにある門です。建春門という門の名前は、北魏の洛陽宮や唐の洛陽宮にあった門の名前です、
切妻造り、檜皮葺の四脚門です。御所六門の中で唯一唐破風を付けた一種の唐門です。
本来は、 内侍所(ないしどころ)への門でした。内侍所とは三種の神器の一つである神鏡を安置 する場所で、古来内侍がこれを守護したため、この名前があります。賢所( かしこどころ)とも言います。
しかし、近世以来、建礼門から天皇が出入りしたのに対して、皇后が出入りする門として役割も果たすようになり、節会や主要な行事の時にのみ、大臣・公家の出入りが許されました。
現在では、皇后陛下や皇太子殿下の御門とされています。
赤が建礼門 ピンクが朔平門 黄色が宜秋門 緑が清所門 青が皇后門 紫が建春門 です。