東山の霊山護国神社は坂本龍馬・中岡慎太郎のお墓があり、大勢のハカマイラーで賑わっています。
その護国神社の参道脇に「京大和」があります。
ここは、現在は料亭「京大和」ですが、実は「翠紅館」という歴史のある建物が残されています。下の写真は京大和の門です。その右手に説明板が写っているのがわかると思いますが、この説明板は京都市が建てたものです。
ここには、鎌倉時代に公家の鷲尾家の別荘がありました。 江戸時代初期に一旦なくなりましたが、後期の天保年間に再び鷲尾家の別荘となりました。
その後、鷲尾家は、その別荘を西本願寺に寄進し、しばらく西本願寺の別邸として、大切なお客様の接待用に利用されていたそうです。
西本願寺はその後、ここを手放し、2人の経済人の所有を経て、阪口祐三郎がここを入手しました。
阪口祐三郎は、大坂の料亭「大和屋」の三代目ですが、太平洋戦争で全財産を焼失するなど苦難の後、昭和21年に「大和屋」を再開し、24年には「京大和」を開業しました。
門を入り右手の小高くなった展望台から見る京都市街の景色は大変すばらしいものでした。近景に八坂の塔と遠景に京都タワーという京都を代表する新旧2つの塔を見ることができます。
料理は、京懐石料理です。
私たちが注文したのは、「二段御重 錦重(にしきがさね)」という、ミニ懐石コースです。
先付け、椀盛、お造り、二段御重、御飯、香の物、果物が出てきました。
二段御重は多彩な食材を使用したたくさんの料理を二つのお重の中に納めたものです。
見た目はもちろん、味も素晴らしいものでした。
名前と料理方法について丁寧に一つ一つ説明を受けましたが、数が多くて覚えきれませんでした。
それと、先付けに出た嶺岡豆腐はおいしいとともに、嶺岡は江戸時代に吉宗が白牛を輸入した千葉県の嶺岡の地名に由来するという説明が記憶に残りました。
吉宗は、嶺岡で白牛から搾った牛乳で「白牛酪」という乳製品を作らせ、自分でも食していたことを思い出しました。
さて、この京大和は料理も有名ですが、幕末の文久3年に討幕派の志士たちが会合をした部屋が残されていることでも有名です。
翠紅館広間は、三条実美、桂小五郎、坂本龍馬ら、志士たちの会合の場所となりました。
文久3年1月27日には、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、さらに、同年6月17日には、長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守ら、各藩の代表者が集まって、攘夷や討幕などの具体的方策を検討しました。
これが世に言う「翠紅館会議」です。
「翠紅館」は、玄関の左手にあり、現在も宴席用の部屋として使用されていますが、特別に見させていただきました。
「翠紅館」は、西本願寺門主の居間だったそうですが、秘密の会合のため、西本願寺が特別に提供したとのことでした。
広間には三条実美が書いた「翠紅館」という扁額が掲げられています。
「翠紅館」という名前は、「翡翠のように紅が鮮やかに見える館」という趣旨だそうです。
門を入った左手の高台に「送陽亭」があります。
見上げるような高さにありますこの送陽亭には、幕末、桂小五郎、武市半平太、久坂玄端、井上馨、真木泉守が集まり、会合を開きました。
また、西郷隆盛と月照和尚もここで会合したことがあるとの説明でした。
現在は、保護建造物となっており、宴席には使用していないそうですが、こちらも特別に見させていただきました。
室内には、会合の参加者の写真がありました。
写真の右手上部に写真が掲げられているのがわかりますか?
ところで、「送陽亭」という名前は、「太陽を送る」という意味だそうです。
西側の障子(左上の写真の左手)を空けると八坂の塔がよく見えますが、夕景色も見事だろうと思います。
まさに「送陽亭」という名前にふさわしいロケーションだと思います。
開かれた障子の間には、「八坂の塔」がぴったりと納まるように設計されていることが下の写真でわかると思います。急いで撮った写真ですがまぁまぁそこそこに撮れたと思います。
赤印が「京大和」です。高台寺の南側で、霊山護国神社の参道にあります。