徳川家茂は、14代将軍ですが、家茂が将軍になるに際して重要な役割を果たしたのが井伊大老です。
そこで、まず井伊直弼が大老に就任した経緯から書きます。
井伊直弼の経歴についての詳細は省略しますが、井伊直弼は、文化12年(1815)10月29日、11代藩主・直中の14男として、槻御殿で生まれ、17歳までここで過ごしました。
そして、「埋木舎」で不遇な青年時を過ごしました。
彦根には、井伊直弼が生まれた槻(けやき)御殿(左上写真)や、「埋木舎」(右下写真)が残されています。
今年のGWに行って、それぞれ見てきました。また機会をみて詳しく書きます。
それでは、井伊直弼が大老に就任する直前から書いていきます。
井伊直弼は、徳川家定の継嗣問題で紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の人々と争っていました
その頃の南紀派には、大名としては井伊直弼を筆頭として、会津藩主松平容保や高松藩主松平頼胤(よりたね)など溜間詰の大名たちがいました。また老中では松平忠固が南紀派であったと言われています。そのほか、紀州藩付家老の新宮藩藩主水野忠央(ただなか)、そして家定の生母本寿院を筆頭とする大奥や将軍側近の御側御用取次の薬師寺元真と平岡道弘も南紀派だったと言われています。
一橋派に傾いていた時の筆頭老中堀田正睦は、越前福井藩主松平慶永(春嶽)を大老に推薦して 時局を乗り切ろうとします。
しかし、これを言上された13代将軍徳川家定は、驚いて次のように述べたと言われています。
「家柄と申し、人物に候へば彦根を指し置き、越前に仰付けらるべき筋これなく、掃部頭(かもんのかみ)に仰付けらるべし」
つまり、家柄から言っても人物からいっても井伊直弼を差し置いて松平春嶽を大老に任ずる理由がないということです。
大老になれる家柄は、江戸時代初期を除き井伊家と酒井家しかありませんでした。
また、御家門の越前家は大老という家臣の役を果たすべき家柄ではありませんでした。事実、文久2年(1862)に朝廷の圧力により、春嶽は大老職に就きますが、職名は政治総裁職となっています。
こうしたことから、松平春嶽が大老になるのはかなり厳しかったと思われます。
これにより、安政5年(1858)4月23日、井伊直弼は大老に就任します。
右上の写真は、彦根城内の金亀児童公園内に建てられている井伊直弼の銅像です。
この銅像は、最後の官職だった正四位上左近衛中将の正装をうつしたものです。
大老に就任した井伊直弼は、条約調印と将軍継嗣問題という二つの難題について決断を求められていました。
これに対して、直弼は、朝廷の勅許を得ずに、安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約の調印を行います。
そして、将軍継嗣については、安政5年5月1日に将軍家定が大老・老中に徳川慶福を継嗣とすることを告げました。しかし、条約問題があったためしばらく公表されず、条約が調印された後の6月25日に将軍継嗣を紀州藩主慶福とすることを正式に発表します。
その後まもなくの7月6日、13代将軍家定が脚気衝心のためなくなり、慶福が14代将軍となりました。慶福は7月21日に家茂と名前を改めました。
さて、14代将軍となった慶福は、
弘化3年(1846)閏5月24日、紀州藩第11代藩主徳川斉順(なりゆき)の次男として赤坂の紀州藩邸で生まれました。幼名は菊千代と言いました。
嘉永2年(1849)に叔父で第12代藩主である徳川斉彊(なりかつ)が死去したため、その養子として家督を4歳で継ぎ第13代藩主となり、名前を慶福と改めました。
実父徳川斉順は、11代将軍の15子で、紀州藩11代藩主となりました。
斉順は12代将軍徳川家慶の弟ですので、家茂は13代将軍家定の従弟にあたります。慶喜よりはるかに血が濃いことになり、これが南紀派の推す最も大きな理由でした。
紀州藩は、上屋敷が麹町、中屋敷が赤坂にありました。
上屋敷は、明暦の大火で、竹橋にあった屋敷が焼失した後、幕府の江戸改造計画により、御三家の屋敷が江戸城内から内堀の外に移転させる方針により、ここに拝領したものです。
麹町の屋敷に最初御殿等が建てられ上屋敷としての役割を果たしていました。
3代綱教の正室となった5代将軍綱吉の一人娘の鶴姫の御守殿があったのも麹町の屋敷でしたし、綱吉の御成があったのも麹町の屋敷でした。
しかし、文政6年(1823)に焼失した後は御殿は再建されず、中屋敷である赤坂邸の建物が利用されたため、上屋敷の機能は赤坂に移りました。
そのため、家茂も赤坂邸で生まれました。
現在は、紀州藩の赤坂邸は、迎賓館や赤坂御用地となっています。
写真は、迎賓館の東門です。喰違門の先にあります。